「われとこがらし」 (石川不二子を読んだこと)

「われとこがらし」
(石川不二子を読んだこと)

ルナアルの『博物誌』一冊あてがはれ置去られたるわれとこがらし 石川不二子

この歌の持つ寓話的な響きが好きだ。「ルナアル」の強烈な磁力と、それをあてがった絶対者の存在、そして「われ」と同格にある凩との関係がさながらイソップ寓話を想起させるからなのかもしれない。

岸田国士訳 ジュール・ルナールの「博物誌」(HISTOIRES NATURELLES)はフランスの農村の日常を切り抜いた詩篇のような作品だ。

そこには爛熟のパリには決して居ない鶏が、鵞鳥が、馬が牛が驢馬が、当たり前のように餌を食み、生活をしている。
この作品の"うるわしい"主人公は彼ら動物なのだ。ルナールの手描きだろうか、巧くはないが素朴な線で愛らしい登場人物を描く挿絵が魅力的なこの本、宮沢賢治の物語ほど空想的ではないけれど岸田の訳の上手さからかとても読みやすい短編集なのだ。読むうちにふとミレーを代表とするバルビゾン派の絵画を、そこに固定されたパリ郊外の農村の簡素ながらも濃密なる日常が浮かぶような能文である。

ミレーは後に労働賛美画家として評価されプロレタリア文学の象徴ともされたのだが、ここで掲句の石川不二子とつながってゆく。石川は東京農工大を卒業した後、当時進歩的であった社会主義的思想の集団農場に入植し、後に自らの牧場を設立する事となる。ここで五男二女をもうけた石川の歌風は土の温もりのする労働の本質そのものがある。

睡蓮の円錐形の蕾浮く池にざぶざぶと鍬洗うなり 『牧歌』

労働とは決して綺麗事ではないという強烈な主張である。仏性すら感じる睡蓮池の静謐を破るのは必ず「美しき」労働者なのだ。いっそ清々しいほどの矜持を言い放つ歌人の手は青く痩せ細り、指弾する指先と舌鋒だけが鋭い主義者のそれと異なり、きっと荒れてゴツゴツとして美しかろう。

荒れあれて雪積む夜もをさな児をかき抱きわがけものの眠り 『牧歌』

労務者に眠れない夜はない。おんなであっても太い鼾をかきながら泥のような疲労の沼に沈み込む。それを「けもの」と呼ぶなら呼べ。ぐずる幼子をかき抱きながら寝入る自分は粗末な服を着ていてもこころは誰より豊かなのだ。都会で神経症に眠れないおまえらにこんなことができるか?と胸を張る作者だ。

われとおなじ名を持つ林檎も薔薇もありこの世たのしとしばしば思へ 『野の繭』

言うまでもなく重労働の日々である。それだけではない。子沢山の彼女は息つく暇もなかったことだろう。自らの生き方に誇りをもっていたとしても辛いものはつらい。額に汗してふと腰を伸ばした先にある空へひとりごちてもかまわない。苦行もまた楽しからずや。この諦観は現代の一読者のぼくにはとても尊く、美しく映る。

かく言うぼくも町工場の親父である。社会主義者でもなんでもない唐変木ではあるが労働者なんである。今日も昼飯を食う時間もなく夜まで働いて寸暇を惜しんでこの文を書いている。やっと座れて溜息を吐く時、石川不二子の歌を諳んじれば、ほのぼのと温もりが上がってくるのがわかる。

叶裕

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