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第1回:受験勉強に見出す「変容可能性」

noteを始めた理由について。

一言でいうと、「文字で思い出を残すため」。Instagramは素敵だけど、文字で思い出が残しづらい。思い出といっても日記とは異なることに注意したい。自分の思考を整理すること、当時の自分は何を考えていたのかを鮮明に残すことを目的としたい。
30代になった自分、おじいさんになった自分に向けて書くことになるため、誰に向けて書くのかなどは考えていない。そのため、自分のお友達とか家族、これまでお世話になった方、勤め先の先生たちを想像して書くことにする。

さて、以下では勤め先の塾に復職し、半年振りに生徒と再会した時のエピソードから自身の受験勉強に対するまなざしが変化した過程を書いた。そこから、教育業界のあるべき姿に関して考察した。少々長くなってしまったが、最後まで読んで頂けると幸いだ。

Chapter1:戻る場所

色々あって退職した塾に復職した。もちろん退職する時も受験生の担当を高校受験・大学受験ともにしていたため、教務・講師の方々、そして生徒にはたくさんのご迷惑をおかけした。
退職を伝えたとき、校長からは「いつでも戻っておいで」って言って頂いて嬉しかったが、自分自身はもう気まずいと思うし、何よりもどんなふうに戻ればいいかも分からなかったから戻るつもりは無かった。
転機は夏、講師のH先生とご飯に行った時「いつ戻ってくるの?教務もおれたちも戻ってくるつもりでいるんだけど」と言って頂いたことで「戻りたい」と強く感じるようになった。そして、今に至る。
大学ではバイトよりも長期インターンをした方が良いという風潮もあるが、自分は長期インターンはしない。理由はまた、別の回で書きたい。
何よりももう一度迎え入れてくれたみなさんへの感謝の気持ちは忘れない。大学を卒業するギリギリまで頼りになる大好きな先生たちと一緒に仕事がしたい

Chapter2:逞しさ

久しぶりに自分が担当していた生徒に会った。一人ずつ思い出を書きたいが、それはNGなので、一般化して話したい。
全員に共通することは、逞しくなったことだ。自分自身、科目指導とか受験勉強とかはあんまり好きじゃない。けど、それらに取り組む過程での生徒は見違えるほど成長する。受験勉強は必要なのか。教科教育は本当に教育と言えるか?と今もなお疑問を持ち続けているが、受験勉強を通して成長した生徒の姿を見ると、受験勉強そのものも教育と表現でき、「変容可能性」を見出すことができるんじゃないかと感じてならない。

Chapter3:誰に向き合うのか?

教育業界のわるいところは生徒に向き合うのではなく、生徒の成績に対してしかフィードバックを行わないところだと思う。幸い、僕の勤め先はそういった風潮が弱いように感じる。
もちろん、成績アップに努めることは塾の本来的な意義であり、生徒もそれを求めている。ならば、教師はそれを理解した上で彼らに気づかれないように「教育」を施せばいい。「科目を教える」のではなく、「科目で教える」のだ。
知識をただ単に伝達するのであれば、コンピューターにも可能であるし、それは単なる「教え込み」・「訓練」に過ぎない。我々が「教育」業を名乗っている以上は、本来的な教育を行わなければならない。できなければ、「受験」業界と改名してしまった方が良い。

以上、受験勉強が教育といえるのか?そして、教育業界の在り方について考えた。この問はおそらく自分の人生を貫く大きな問になると想像する。

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