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知り合いより知らない人との会話が円滑だったりする

私は元々幼少期から人と関係を持ったりコミュニケーションをとる事に対してかなり慎重だ。人と関わるという事は大きな責任が伴う。その人との関係が続く限り、なるべく良好な関係を継続させたいと思うのは当たり前かもしれないが、それを考えすぎてしまうため会話の瞬発力が出ない。言葉の持つ意味やニュアンスを汲むのに時間がかかり、スムーズなコミュニケーションが難しくなってしまう。

相手の話を聞く場合、相手の求めている返答や会話の展開を勘繰りすぎて話の舵取りを誤り、気づいたら自分の意見と違う方向に進めてしまったり、自分の意見を上手くまとめられず、わかりやすく一般論に寄せてしまい、何とも居心地の悪い状態に陥ったりする。あと、見切り発車で散々話を続けて、結論の一歩手前で「いや違うわ、なんでもない」と会話を突然終わらせる事もしばしば。

それに加えて私はなるべく意味のある話や重みのある言葉を探している。
生きていく中で人並みに会話を続ける為に「とりとめもない話」という処世術は身につけてきたが、なかなか意味を見出せず上の空で話している事が多い。無意味に感じてしまう。

そんな私でも、スムーズに実のある話ができる時がある。
それは、知らない人との会話だ。私は街行く知らない人に対しては結構積極的に話しかける方である。
特に、何かハプニングがあると積極的に周りの人とコミュニケーションを取ろうとする。(見て見ぬ振りする人が多くて悲しい)
先日中古カメラ店で英語が通じず困っていた外国人に出会い、拙い英語で話して意気投合したり、知らないおばあさんの飼い犬が目の前で逃げだしたので、保護してその後一緒に話しながら散歩したりした。
こういう場合は本当に興味のある話ができるので、とても楽しい。

そして知らない人との会話は気が楽だ。責任から解放された状態での会話は純粋に楽しいと思える。相手を知りたいというピュアな動機から来るコミュニケーションには嘘がなく、純度も高い。今後の関係性を気にしないから、変な間の読み合いとか無意味なアイドリングトークも必要ない。

ここで着目したいところがある。
会話のスキル的な部分ではなく、コミュニケーションの根幹にある部分だ。
あくまで私の場合ではあるが、知らない人との会話は利他的であると言う事だ。
そもそも会話のきっかけが人助けからスタートするから当たり前かもしれないが、確かにその会話の中では、ただ助けたい、楽しませたい、相手の事を知りたいという部分が大きく、自分の印象がどう見えるのかはそっちのけだ。それゆえに自分の精神状態が安定している時だけ利他的な会話が可能だったりする。

対して、普段関係性のある人との会話は利己的だったのかもしれない。頭のどこかで自分を知ってほしい、好かれたい、嫌われたくない、迷惑をかけたくない、など自分の印象を良くすることを無意識に考えてしまい、変に意見をこね回しすぎて返答に時間がかかっていたのだろうと思った。

利己的になるのが悪いと言うわけではない。人間だからそれは仕方ないことだし、生きていく上で必要な要素だ。それに相手を思いやるためにまずは自分を満たさなければいけないのだから、自分を一番に可愛がることから始める必要がある。

ここまで話しておいてだが、もはや冒頭に話したスムーズな会話などどうでも良いことなのかもしれない。それができなくても、自分だけで責任を感じる必要はない。会話というものは両者が歩み寄るものなのだから。自分も相手も、それぞれのペースを尊重して丁寧に耳を傾け、意味のこもった会話ができたらそれ以上のものはない。

私自身、日頃の生活で疲弊しすぎて独りよがりにならないように、自戒も込めて。自分を労ることから始めようと思う。

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