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南さんちのトイレカバー

私の事を、りんりんと呼ぶ女の人がいた。
少し年上の職場の先輩だった。
その人がどうして私の事をりんりんと呼ぶようになったのか、よく覚えてない。
でも、その呼び方には愛が溢れている様な気がして、私はとても好きだった。

その先輩はとても料理が上手な人で、お弁当をいつも手作りしてきていたんだけど、時々私の分も作ってきてくれる事があった。
りんりん、今日二人分作って来たよ。お昼一緒に食べようよ。
そんな風に誘ってくれた。
そしてそれは、とてもおいしかった。
南さん、これすごくおいしい!!どうやって作ったの?って聞くと、丁寧に丁寧に作り方を教えてくれた。
南さんの実家は喫茶店をしているんだって。
だから、おいしいレシピをたくさん知っていたのだ。
南さんのお弁当で特においしかったのは、照り焼きチキンサンド。

そして南さんは、料理上手なだけじゃなく、賢くて美人で、おっぱいがすごく大きかった。
ダーリンと呼んでいる人と一緒に暮らしていて、でも結婚は出来ないんだって言っていた。
ダーリンはおいしい物が大好きで、それを南さんに再現してほしいからいろんなおいしい物を食べに高級なお店にも連れて行ってくれるんだって。

一度、南さんの部屋に遊びに行った事がある。
私と、もう一人の同僚の女の子と3人でお鍋パーティーをしようって誘ってくれた時。
ダーリンはお仕事でいない日だったけど、私たちのためにケーキを買っておいてくれてた。

私はそれまで、男性ばかりの職場で働いていたから、そういう女性同士のお呼ばれみたいなのは初めてで、どうしていいか分からずに、なぜかお花を買っていった。
たぶん、飲み物とかデザートを買っていくべきだったんだ。
でも、南さんはすごく喜んでテーブルに飾ってくれて、もう一人の女の子に、『りんりんが持ってきてくれたんだよ♪』って言ってくれた。
その子には、『ゆーちゃんの事だからその辺で摘んできたんじゃないの?』ってからかわれたけど、私はちゃんと駅前の花屋さんで買ったんだ。
南さんが好きそうな、鮮やかなピンク色の花。
なんていう名前の花だったかは忘れてしまった。

南さんは、お鍋の他にもいろんな料理を準備してくれていた。
私はその日、初めてスパニッシュオムレツというものを食べた。
途中から一緒に作ったから、作り方もちゃんと覚えた。
随分昔の事なのに、今でもはっきりと覚えてる。
南さんが、小さなフライパンをポンとふって、ブロッコリーをひっくり返す瞬間を。

私は、おなかいっぱい食べた。
そして、トイレを借りた。
南さんのとこのトイレには、便座にタオル地のカバーがしてあった。
私はこのカバーがしてあると、子どもの頃から緊張してしまう。
カバーがなければ全然大丈夫なのに、カバーがしてあるとなぜか、濡らさない様にしなくちゃっていうプレッシャーがかかるのだ。

そして、そのプレッシャーに負けた。
カバーにかかってしまった。おしっこが。

トイレから出て、南さんに言わなくちゃと思った。
だけど、恥ずかしすぎてどうしても言えそうにない。
いや、でも黙ってる訳にはいかないよね。
そこはがんばって言わなくちゃ。
でも、恥ずかしい・・
そうだ、トイレから出てすぐにじゃなくて、少しおしゃべりして落ち着いてから言おう、と思った。
私たちは、ダーリンが買っておいてくれたケーキを食べながらおしゃべりした。

そして、言うべきタイミングを完全に逃した。

私と同僚の女の子は、南さんの部屋をあとにした。
私は結局言えなかったのだ。
どうしようどうしようどうしよう。
私はその子に、忘れ物したから先に帰ってて、と言って駅前で別れ、南さんの部屋に走って戻った。

南さんの部屋の前に着くと、ちょうどダーリンが帰ってきたところだった。
なんというタイミング。
私は動揺してしまい、向きを変えて逃げる様に走り去った。
ケーキのお礼も言わずに。

つまり、最悪な人だった。

今の私なら言えるのにな。
『ごめんね、トイレカバー濡らしちゃった。お風呂場で洗わせて!』
きっと南さんは、『やだー、りんりん』って笑い飛ばしてくれたはず。

もしあの時に戻れるなら、
トイレカバーも洗いたいけど、せめて、ダーリンにケーキのお礼を言わせてほしい。


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