見出し画像

曲の中の「紙芝居」

(写真は6月の国分寺紙芝居イベントにて)

最近、曲の中で「紙芝居」というフレーズが歌われることが増えたと思う。

というのを、意識したのは、今年リリースされた坂本慎太郎「物語のように」を聴いてからなのだが、改めてそのことを、時系列的に並べれば、時代背景と共に「紙芝居」がどう捉えられてきたか、が掴めるところもあるのではないかと思い、現在出来る範囲でリスト化してみた。

【曲の中で「紙芝居」が歌われたリスト】
〈()はリリース日〉

・水谷豊「やさしさ紙芝居」(1980)
・吉幾三「俺さ東京さ行くだ」(1984)
・スガシカオ「ドキドキしちゃう」(1997)
・豚乙女-BUTAOTOME-「ゆらら紙芝居」(2011)
・detune.「紙芝居」(2011)
・竹島宏「東京紙芝居」(2015)
・レーモンド松屋「初恋紙芝居」(2015)
・清水碧叶「紙芝居」(2021)
・llie「kamishibai 」(2021)
・坂本慎太郎「物語のように」(2022)
・タケウチカズタケ&小林大吾「紙芝居を安全に楽しむために」(2022)

(調査中 2022.8.10現在)

(注)
・タイトルのみ「紙芝居」と記載されているものは省く

一通り、上記に挙げたものは聴いてみた。
その感想として、ある程度共通しているのは、
「紙芝居」というフレーズは〝ノスタルジア〟(郷愁)として歌われていたことだ。

その代表例として、水谷豊「やさしさ紙芝居」が挙げられるだろう。
ここで
人生なんて紙芝居だと
という歌詞から、紙芝居作家、演者の人々の中には「人生紙芝居」という言葉で作品を指し示すこともあるのではないかと思う。
作詞が松本隆ということを初めて知り、たしかに言われてみれば、「はっぴいえんど」の流れから〝失われゆく日本の情景〟を歌詞にしてゆく形は分かるような気がする。

面白いのは、吉幾三「俺さ東京さ行くだ」で、「紙芝居」というは〝非都会的なもの〟として歌われている。
ただ「東京でベコ買うだ」と歌うぐらいなので、どこまで冗談なのか分からない面白さがある歌詞でもある。
薬屋無ェ 映画も無ェ たまに来るのは紙芝居

この曲が歌われた1984年では〝確実に〟紙芝居という文化は、「ローテクノロジーの代表」のような印象がある。

しかし1997年、スガシカオ「ドキドキしちゃう」では次のようなフレーズで歌われる。

どれだけ君がすばらしい大人になったからって
どんなにたくさんの慈悲の心をもっていたって
ずっとぼくの胸に紙芝居のようにめくるたびドキドキしちゃう ドキドキしちゃう


ここで歌われる主人公にとっての紙芝居は、少なくとも紙芝居はドキドキしちゃうものなのだ。
それが例え、好きな女の子に対しての「めくる」という行為なのか、その辺りは謎ではあるものの、どうやらこの歌の主人公の心持ちの中では「機能」している紙芝居ということが分かる。

現在調べている中で、2000年代に紙芝居が歌われた曲を見つけることが出来ていない。
見つけたらリストに付け足したいと思う。

余談だが、
2008年に自分は手づくり紙芝居コンクールの最終審査では、紙芝居上演のストーリーに沿ったアカペラを歌い、大賞を受賞している。
そういう意味でも、歌と紙芝居の関係性には、興味を持っていると思う。

2011年以降、その初頭と言うべきか、いくつかのユニットやバンドが歌っているものの、何故「紙芝居」というフレーズが歌われているのか、聴いたところ説得力が少なかった。

面白かったのは2015年にリリースされたレーモンド松屋「初恋紙芝居」で、

さしかえさせてよ あの時あの場面
私の恋の紙芝居
さしかえさせてよ もう一度私の初恋紙芝居

と歌われる。
これは紙芝居の構造を知っていないと「さしかえさせてよ」というフレーズは出てこないと思う。作詞家は少なくとも、絵本には出来ない「さしかえる」という特徴を知っている人物と思われる。
聴いていて成程と思った。

2022年6月にリリースされた坂本慎太郎「物語のように」では、「紙芝居」というフレーズから歌が始まる。

紙芝居のように 昔に戻ろうか
紙芝居のように 旅に出ようよ
紙芝居のように 子供に帰ろうか
紙芝居のような 夢を見て

この歌詞は、郷愁であると同時に未来に対するメッセージにも聴こえる。この歌詞の真意はわからないものの、「紙芝居」というフレーズがある種の〝世界観〟を感じさせるものであることを想った。

同年7月にリリースされた、タケウチカズタケ&小林大吾「アグロー案内vol.1」の曲目「紙芝居を安全に楽しむために」は、独特と言わざる得ない。
というのは、ここで歌われる「紙芝居」というものは、星新一のSF小説か安部公房の短編に出てきそうな、所謂現実世界に(今は)存在していない『紙芝居』のことを歌われている。
曲としては、歌ものというより、メロディトラックと共に語られるポエトリーリーディングに近く、その形態も独特である。
『紙芝居』が一種のメタファー(隠喩)なのか、それは受け取り手によるのかもしれない。というのは、曲中で「紙芝居」の構成については、例えばレーモンド松屋「初恋紙芝居」のように触れられることは一切無いのである。
ここに歌詞を載せることはあえて省く。
曲を聴けば、この曲〝でしか〟捉えられない『紙芝居』の世界が存在している。
それはもしかしたら、未来の「紙芝居」のことを歌われているのかもしれない。

一先ず、ここまで調べてみた感想は、初めに戻ってしまうが、「紙芝居」というものはある種のノスタルジア(郷愁)をパワー(力)として持っている、ということだ。絵本以上に「紙芝居」というものはどうやら自由なものなのかもしれない。
作っている自身としては、そんなに自由でも無いなと感じはしつつも、それに抗うがの如く、人々の「紙芝居」への理想又は想像を、感じ取ることが出来、それに負けじと創作に向かわねば、とひとり志しを想った。

また少しずつ調べたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?