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魂が知らない世界で輝きだしてる

どんどん時間が過ぎてゆく。
早く書かなくては、という焦る気持ちばかりだ。

先週の土曜日にゆとり会を開催した。
書きたいことはたくさんある。
どうやって準備をしたのか、どうやって制服を考えたのか、当日どんなことを話したのか。いかようにでも軸が作れるからこそ、なにを書きたいのか、なにを書かなくてはいけないのか、よくわからなくなってしまった。
今回は、ゆとり会を開催して私に起きた変化にフォーカスしたいと思う。

ゆとり会を終えて、私が手に入れたもの。
それは、
私は私のままで、好きに生きていい
という赦しのようなものだった。

私はずっとずっと自分に自信がなくて、うじうじと悩み、完璧主義で、めちゃくちゃ自分にも他人にも厳しいタイプだった。この2年は、自問自答をし、周りのいろんな人の助けを借りて、少しずつ自分を認めていく過程だった。ムーンプランナーさんのパーソナルサービスを受けたときにレポートに書かれていた「自己評価を健全に下げていく」という作業をちょっとずつ進めていた。

そんな中で少しずつ変化があった。自分のことを知り、自分の好きなものを思い出し、自分のやりたいことをやってあげて、自分の中で自分との信頼を少しずつ取り戻した。少しずつ信頼を貯められたからこそ、ゆとり会を開催します!と公に発信することができた。(ちなみに発信~当日までで一番緊張したのは開催宣言のnoteをあげる瞬間だった。笑)

ゆとり会の当日までは、まったく準備を進めない自分を責める自分とおもしろがる自分のふたりがいた。苦しくなるというよりは、なんでこんなにできないんだろう?と自分自身に問いかけている感じだった。当日、100%の準備ができたか?と問われれば、NOだけど、できる限り自分自身に集中して、誰かに喜んでもらうための準備は切り捨てて、自分のために注力した。ふだんだったらそんなことはありえない。私は誰かに喜んでもらうことが好きなことで得意なことである。だけど、私は私のためにゆとり会を開くから、自分ファーストで準備をしていこう、と言い聞かせていた。

当日、二次会も終わり、片づけをして、あきやさんにもお礼を言ってお別れをしたあと、感じたことのない疲労と達成感があった。なるほど、主役になるとはこういうことなのか、と思った。それ以外、考えられない状態だった。夜ごはんを食べながら、Xを開く。そこには来てくださったひと、インスタライブを見てくださったひと、たくさんの感想が並んでいた。そんなことは想像していなかった。有難いなと思いながら、いつでも自分で見返せるようにひとつずつリポストした。DMやインスタでいただいた感想はスクショした。お風呂に入り、ドライヤーをかけていると、あきやさんから日記noteの下書きがきた。日記にしてもらえるなんて思ってなくて、また感動した。ほかの方もnoteを書いてくださって、感動や驚きを超えて、私の知らない世界が広がっていた。

月曜日、会社で呼び出された。覚悟は決めていた。私の会社は、私が思っていた方向と反対の方向にいくようだ。納得いかなくて辞めるの覚悟で意見をしたんだけど、覆ることはないようだった。そんな場所でこれからも働いていく必要があるのか?本当に自分の人生について考えないといけない。不思議と不安はそんなになかった。それは、ゆとり会を開いて自信がついたからだろう。さすがに私にはなにもない、なんて言えない。そんなことを言ったら、来てくれた人に、感想をくれた人に悪いから。

実は、ゆとり会を開く数日前、突然「あれ・・・?やりたいことこれかも?」という感覚があった。ゆとり会当日の夜ごはんを食べているとき、さらにひらめきが降ってきた。今まではこのひらめきをいきなり独立して飯を食える状況にしないといけないと思ってぐちゃぐちゃ考えてしまっていた。だけど、今回とりあえずやってみようと思った。やってみなくちゃ始まらないし、やってみた先には思い描いていたものと違うかもしれないけど、必ずなにかある。そう素直に思うことができた。そして、その思いついた私のやりたいことは、結局あきやさんが最初に考えてくれたコンセプトなのだ。

手順や中身が違えど、2回目以降の私はたいてい無敵だ。もうやり方はわかってる。私には締切が必要で、それは公に宣言しないといけなくて、それから中身を練っていく。ひとりではなくて頼りになる相棒がいる。(ゆとり会もこっそり荷物の運搬とゴミの引き上げをしてもらってて本当に感謝してる)中身の完成を待ってから宣言するとしたら、たぶんおばあさんになっても始まらない。

始めちゃえばいいのだ。

って、思えるようになれた。私の頭で考えても思いつかないような世界がある。私がその世界を見るためには始めるしか行動するしかない。想像力の乏しい私には、頭の中でその世界に行くことはできないのだ。それは短所だと思ってきたけれど、きっと長所でもあるのだろう。

ここまでうじうじ言い訳せず、腹をくくれたのは、私が私のために我儘に自己満足に話したことが、人に届いてると体験を生まれて初めてしたからである。私が私のために開いた会が、ほかの人にとっての“なにか”になったことが自信になった。私は今まで人の役に立つことをしてないと生きている意味がないと思ってたのに、私が私のために生きても、人に“なにか”を届けられるみたいだ。

そのことに気づいたら急に“人の役に立つことをしなくては”ということこそ傲慢なのでは?と思った。人の役に立つことだと思って行動するからこそ、行動する前に怖くなったり、相手の反応が思ったとおりじゃないと怒ったり悲しくなったりするんだ。それは相手のことを思っているふりでしかない気がしている。

楓のおばあちゃんもこう言っている。

自分のせいだというふうにだけは、思ってはいけないわ。そう思っている限りは自分が当ててやったという気持ちにも、いつかはなるということだからね。そういう気持ちの芽を持ったままでいると、必ず謙虚さは傲慢さの裏返しになってしまうから。

よしもとばなな/王国 その1 アンドロメタ・ハイツ

そしていつも理不尽な怒りを感じたときは雫石のおばあちゃんの言葉を思い出す。

人のいるところには必ず最低のものと同時に最高のものもあるの。憎むことにエネルギーを無駄使いしてはいけない。最高のものを探し続けなさい。流れに身をまかせて、謙虚でいなさい。(略)憎しみは、無差別に雫石の細胞までも傷つけてしまう。

よしもとばなな/王国 その1 アンドロメタ・ハイツ

私は私のために生きていく。
それをやっと赦すことができそうなのだ。

私の世界では私が主役を張るという覚悟なんだと思う。その覚悟はまだ確固たるものではないけれど、ゆとり会はひとつのポイントになってほしい、と思っている。

ゆとり、ゆとり会を開催するってよ。

なんて、この後に及んで他人事のようにポイントになってほしい、なんて言っていたけれどポイントにするかどうかは私が決めていいんだ。
私は今回のこの出来事をただの素晴らしい出来事で終わらせたくない。人生のターニングポイントにする。それもすべて私が決める。旅の話は、振り返って意味付けをしたけれど、未来の意味づけを今の私がしたっていいよね?

私の魂が私の知らない世界で輝きだしている。
早く私がその世界まで辿り着かないといけないね。

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