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雪景色の中、地球とお金について考える

雪が多いと言われている地域に来ている。
いろんな人から運転気を付けてね と言われたのだけど、肩透かしなくらい道に雪はなく、とても順調である。ふだんあまり雪を見ない私は楽しみにしていた部分もあるんだけど、安全には変えられない。そのうえ、住んでいる人たちは雪かきをしなくていい と喜んでいる。運転していて、そんなことを考えながら、でも、地球温暖化って大丈夫なのかな~と気になってしまった。
そのタイミングでやり取りをしていた友人に話すと「地球の心配より自分の運転を心配しなさい」とか「ゆとりが心配してなにかしてもひとりじゃ地球は変えられないから大丈夫」とか言われて、ちょっと目が覚めた。

私は、自分の心配より本気で地球の心配をしているタイプの人間だった。
そして、ひとりひとりの行動が世界(地球)を変えられると信じているタイプの人間だった。

実際そういう側面もあるし、自分はやらなくていいって自己中心的に思っていたら、世界(地球)がよくなることはないだろう。だけど、それって自分のことをしっかり考えてる人だけが考えられる特権なのではないだろうか。私はその域に達してないんじゃないかなあ。

たとえば、我慢できる寒さ(暑さ)のときにエアコンをつけることに抵抗があった。包装が過剰なお菓子を買うことにも抵抗があった。問題は”つけたい””食べたい”という自分の気持ちを無視していること。逆に、"地球によくない"と頭が一度ブレーキをかけた行動を結局行うので必要のないストレスを感じること。それらが問題だ。

誰かのために生きるのはもうやめた、と言っているのに
私はまだ自分以外のなにかを探しているのだろう。

おんなじように頭の中で頻繁にブレーキがかかることがもうひとつある。
それは、お金の使い方だ。
自分が使ったお金は”投資""消費""浪費"に分けられて、"浪費”を減らしていくことが貯金(節約)につながっていく、というのは定説だろう。だから、欲しいなと思ったけど必要ではないものを買う前に同じように頭のなかでブレーキがかかる。買わないと自分の望みを叶えてあげられなかったことがストレスになるし、買うと”浪費”してしまったと責めてくる自分もいる。

今はこうやって少しずつ言語化できているけれど、1年前くらいまでは言語化できていなくて、常に頭の中がこういういろんな声で騒がしい状態で本当に大変だった。私にとっては、この声が”みんな”の正体だった。

ひとつひとつ、物を自問自答して買うということは、あきやさんを通じて学んだ。
それでも、一生懸命自問自答して購入した服がコンセプトには合っていても機能性が最悪ですぐ手放すことになったり、一目惚れで衝動買いしたアクセサリーが自分の本心に気づくきっかけになったりする。自問自答道を究めても、100%正しいものだけを購入することなんかできない。もし、そうだとしたら思考が停滞しているということになるのだろう。

SNSの世界は(もしかしたら実生活において人と関わるときすべて)正解を選んだことだけがフォーカスされている。それは、自分を守るための鎧のこともあるし、先人の知恵としてあなたに失敗してほしくない優しさのこともある。だけど、あなたの正解が私の正解とは限らない。過去の私の正解が今の私の正解とは限らない。

私は、私の考えを正解ですよっていう形では絶対に書きたくなくて
できれば失敗も大っぴらに公開していきたい。

そんなことをぼんやり考える雪景色だった。



そんなふうに自分本位に生きても、地球を救う日が来るんじゃないかと思って、そういう文末にしようと思っていたんだけど、文章にしたらそもそも地球は救われたいと思っていないかもって思った。そんなこと気にしてないで、まず自分を救え、ばか と言われた気がした。

そもそも、私は救わないといけないようなところにいるんだろうか。
そう思っているのは自分だけなのかもしれない。

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