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受付嬢京子の日常③

今日は何も起こらずに終わりそうだ。21時になるのを確認して、原田京子は日誌を取りだす。落とし物が2件、電話での落とし物の問い合わせが5件。クレームもなく、1日が終わると思うとほっとする。受付嬢として京子が働くエキモは人通りが多く、業務のほとんどが道案内だ。それでもクレームが立て込む日がある。そんな日は、同じ労働時間でも、疲れ方が全く違うのを、感じていた。

「チェック表取りに行ってくるね。」

山﨑美奈子の足取りが軽い。受付での業務終了時に行うチェック表は、朝、確認事項を行って事務所に持って行き、締め作業に入る前に事務所に取りにいく。遅番の2人が揃っていて、誰にも捕まっていない。今日みたいな日は時間にも余裕があり、平和な気分になれる、と京子は、日誌のチェック項目が全て埋まっているかを確認しながら、周りの様子を見る。この時間になると、どこの店舗も入店人数が少ない。ちょうどインフォメーションの目の前にあるアパレルブランドは、何十人も一度に入れる広さに、2人しかいない。少しずつ片付けを始めているのがわかる。

「ねぇちゃん、タバコ吸えるところ、ない?」

大きな声に、京子は、思わず真顔で振り向く。1メートルは離れているはずなのに、アルコールの匂いがして、一瞬反応が遅れた。突際に口角だけ上げる。

「喫煙所でございますね。こちらでは、全館禁煙となっておりまして、施設外に喫煙所がございます」

「それ、どこ?」

けして嫌な言い方ではないのだが、男の声が大きすぎる、と京子は思っていた。こんな時には、近隣店舗から警備室に通報がいく。急いで案内しなければならない。

「は、はい、こちらのですね…」

言いかけながら、京子がインフォメーションデスクの外に出る。

「通路を右に曲がっていただきまして」

「右ってどこ?」

アルコールのせいか、男はさらに大きな声になる。京子は通路を曲がる場所までの3メートルを早足で歩く。とにかく早く終わらせたい。男は黙ってついてくる。

「こちらをまっすぐ行っていただきまして正面のドアから、外へ出てからもう一度右に曲がってください。15メートル先を左に行っていただきますと、喫煙所がございます。」

「ん。ありがと」

最後まで大きな声だ。ちょうど歩き出した男と、警備員がすれ違った。男が通路を歩いていくのを見守っている。なんとかなりそうだ、と京子はインフォメーションに戻った。3万人も利用者がいる施設だ。酔っ払いがいるのは日常で、何も怖くはない。変なことがあると、派遣会社に知らせが行ってしまう。とにかく、大ごとにならなければ、いい。京子の本音だ。

「行ったよ」

人懐っこい顔をして、警備員が近づいてくる。高田登だ。

「いやぁ、困るね、酔っ払いは」

苦笑いを浮かべる。背は、マネージャーの木嶋と同じぐらいだろうか。高田も肩幅があってガッチリしている。昨日入ってきた、あれは誰と言っていただろうか。警備と言うにはあまりに青白い顔をしたメガネの人じゃなくて良かった、と京子は考える。

「ちょっと声は大きかったですけど、何もされませんでしたよ」

「原田さん小柄だし、何かあったら、危ないからね」

警備室では常に何台もある監視カメラをしながら、定期的に巡回をしている。カメラの前では暇だ、と高田が言っていたのを思い出した。出てくるのが退屈しのぎになるなら、言う必要ないかと思いつつ、京子は申し訳なさげな顔を作って

「ありがとうございます」

と顔の前で手を合わせ、軽いお辞儀をして見せた。満足げに頷く高田の奥に美奈子が帰ってくるのが見えた。21時30分を過ぎている。事務所の人に挨拶でもしていたんだろうか。インフォメーションの横の雑貨屋にまだ商品を見ている女性がいる。京子は道案内に関する報告用紙を1枚棚から取り出した。


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