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ソフィ・カル《限局性激痛》の感想

原美術館に初めて足を運ぶ。住宅街にヒッソリと存在する美術館で、雰囲気は小規模な金沢の21世紀美術館みたいだ。惜しくも2020年に無くなってしまうそう。とても素敵な建物なので、ぜひ自分の目と足で形を確認して欲しい。

展示は、失恋という『不幸』までのカウントダウンで始まる二部構成だ。

一部は、原美術館の一階に展示されている。

大好きな恋人へのメッセージや写真が主で、やり取りの全てに『あとXX日』という真っ赤な消印のようなスタンプが押されている。カウントダウンによって、不穏な雰囲気を読み取ることができ、『不幸』に近付くにつれて緊張感が増していく。

一部を見たら、館内の階段を登って、二部を見る。

二部のスタートは『不幸』の現場から始まる。

『不幸』はホテルの一室で、なんとこの現場が展示の一部として表現されているのだ。二部はここに始まり、ソフィ・カル自身の『不幸』について刺繍で綴ったものと、他人の『不幸』を綴ったものがずらりと並んでいる。要は自分の辛さと他人の辛さを比較しているのだ。並べられた他人の不幸のエピソードは、どれも痛ましいものばかりなので、ソフィ・カルの『不幸』は段々と""薄れ""ていく。とても不誠実だと誰でも思うはず。

一通り見て得た感想は、「気持ちが悪い」だった。

初めに感じた不快感の一つが、周りがこういう感覚で物事を処理していたら、と考えるとぞっとするということ。というのも、人の体験と自己の体験を比較しないというのが、私の中のルールだったからだ。当たり前だけど比較するときりが無いし、自身が痛みを持った経験だけがその人にとっての本物の痛みという認識でいいと思っていたから。

二つ目は、もっと個人的な感想になるが、失恋という体験を『不幸』に括ってしまうのは惜しいと思ったこと。あまり、『不幸』を『忘れよう』としたことが無かったので、より理解が出来なかった。

ソフィ・カルの場合はたまたま失恋だった。
だけど、ソフィ・カルの『不幸』が失恋じゃなかった場合は、どうだろうか。もっと言えば、私たちが生活する上で感じた痛烈な『不幸』に対して、どう処理をしていたか。

『不幸』と言えるような出来事で心が痛まないようにするために、他人の経験と比較して「私はまだマシだ、だから大丈夫だ」と思える処理は、無意識にしてしまっているかもしれない。少なくとも、誰しも、全くしてないとは言えないはずだ。

失恋という、誰でも体験する類の平凡な不幸のチョイス。
これは共感を得やすい切り口で、とても悪質だということが分かる。

唯一、可愛らしいなと感じたエピソードは、ヨウジヤマモトの服(たぶん)を着る時のこと。とこれはちゃんとメモすればよかったなあと反省。次に美術館に行くときはちゃんとメモを持っていくぞ~。

ソフィ・カルについて全く知識が無いので、彼女がこの恋愛に激しい情熱を感じていたのかわからない。それにしては、あまりにも、構成には冷静さを感じる。それゆえ、全体を通して見ると、彼女が表面上で激情的であることを愛してるのではないか、と私は錯覚した。


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