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完璧をめざすのではなく、あえて未完にする。未完は明日に続くものだから。-横尾忠則-

自分が何者か?」という問いに深く疑問を持った時期があった。

高校、専門と2度留年中退し、30社近くの職を転々としたり、奈良の宗教施設に累計約1年近くこもり学び、精神修養にいくこともあった。アウトサイダーなグレーな脇道に逸れた時も多々ある。

いま思い起こせばその全てが自分が起こした行動、言動に対して起こるべくして起こった事象であったのだと思う。

だからこそ「自分は何者でもない」という結論に至った。病や怪我によって変容する身体は自分のものではなく、産んでくれた親であり先祖であり繋ぎ繋がってホモ・サピエンスが生誕したアフリカの地で全ての人類が繋がっているのかもしれないと空虚にみられがちな妄想にひとり孤独に耽けたこともある。

幽体の様に目指す場所がふわつく時期に言葉に出さずとも悩む方はきっと多い。周囲からは「優柔不断」「迷走している」「地に足がついていない」と僕と同じように言われた事がある方がいるかもしれない。

流動的に変化の波の強さが低くも高くも変わるこの時代において終始、一貫性を保つことは並大抵のことではない。できる方は多いだろうが僕にはどうしてもできない。

地球で例えれば、言葉にならない想いはコア(core)にあるけれど、周囲を覆うマントル(mantle)の部分は地震で揺れ動くかのように日々変化していく。雑多と思われる行動の集合体が分厚いマントル(mantle)となり球となる。それがこの1年発酵していくように人としての地盤を作る日々を自分なりに過ごして心に描いた絵図である。  

「未完成の才能」それこそが僕の明日へと生きる心のクレドなのかもしれない。一貫性ではなく、変容性の美学を貫いていこう。

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