見出し画像

詩なんてこれっぽっちも興味のないあなたに survof/うつつ

こんばんは、芦野です。
今日は昨日公開した企画にのっとり久しぶりに詩の批評をやります。

先日も書きましたが、詩なんてこれっぽっちも読まない方に「あ、おもしれーじゃん」と思ってもらえるように頑張って書きますので、もしよろしければ読んでいっていただけると嬉しいです。

エントリーNo.3
ハンドルネーム:survof
タイトル:うつつ

本日扱うのはこちらの作品です。

はじめに

騙されたと思って上のリンク先にある作品をまずはご覧いただけたらと思います。そして読んだ感想片手に、ポテチでもかじるみたいに気軽に聞いていただけたら幸いです。

朝の紅茶はダージリンと決まっている。夜の網膜に色を乗せた絵筆を洗うとちょうどこんな色になるのだろう、ミルクを垂らすと渦を巻いて濁ってゆくその錆びた鉄の色は、ひと欠片の躊躇いも示さずに透明を手放し、トクンと音をたててから、ささやかなつぶやき声さえもその乳白に埋め込んで、ただ微細な振動だけを残してここで静かに。

第一連を引用しました。
さて皆様はこの文章にどんな感想を抱きましたでしょうか。十中八九詩を普段読まれない方は「夜の網膜?!」となってしまっていることとお見受けします。でも大丈夫です、僕にもわかりません(と今は言っておきます)。

あなたが「詩」とりわけ「現代詩」という何やらきな臭いジャンルの文章に漠然といだいている感想って「(何が面白いのか)よく分からない」というのが大半なのでは、と思っています。できればそんなあなたに、「なんだこんな簡単なことで詩って読めるようになるのか」と思っていただくのが今回の僕のミッションです。

「要するに」で読む

早速ですが第一連をプロ並みに読みこなす魔法をお見せします。

「なんかよくわからないけど、要するに紅茶を淹れたな」

ええ、もちろん馬鹿にしてはいません。この詩の難しいところって「要するに何してるの?」というのがすっと入ってこない書かれ方をしていることなんですよね。「夜の網膜」とか「透明を手放し」とか、そういう言葉に躓いてしまってこの「要するに」が入ってこない。これは詩を読み慣れていない方が陥りがちな罠です。というのも詩というのは「要してはいけない」と多くの人が勘違いしているからです。難しい言葉を使っているのならそれなりに意味があるのだろうからちゃんと読まねば、と少し肩に力が入ってしまうからです。そして、読むのをやめます。或いは「言葉遣いが細やかで美しいですね」と自分でもよく分かからないことを適当に言って去ります。

そんなことをしてしまうのならまずは要してしまいましょう。

1連目は要するに紅茶を淹れた。
2連目は要するにぼーっとした。
3連目は要するに鳥の鳴き声を聞いた。
4連目は要するに紅茶を飲んだ。

5連目は要するに人が次々と埋葬された

え??!!

ってなりますよね。
でも多分普段から詩を読み慣れてないと、5連目で描かれていることのギャップって字面ではわかるけど、それほどのギャップがあることを気付きにくいんじゃないかなって思います。でもこういう風に書くと目立ちますよね。

実を言うと「詩を読み慣れる」というのはこの「要するに」に慣れることです。もちろん詩と言うのは言葉にものすごいこだわりを持った人が短い文章の中に色々なものを表現する文芸です。だから詩の面白さは最終的にはその「細部」に宿っていることは間違いないのですが、「細部」がなんだか「意味ありげ」すぎて、最後まで力配分が続かない、というのがこういう文章に挫折してしまう方や面白みを見出せない方の大体の傾向なのではないかな、と思います。だからとりあえず「要するになんなのよ」で読み通せばいいのです。

転換を読む

そしてこれはほぼ必ずと言っていいと思うのですが「面白いと思える作品」はそもそもこの段階で何かしらの発見があります。この作品の5連目のギャップに「おや」ともしあなたが思ったのなら、この作品はあなたにとって面白い作品になる可能性を秘めています。

ここに一人、そこに一人、また埋葬が始まる。腐敗した養分を枯葉に吸わせ、煙は揺れて炎は共鳴する倍音、景色はそこで始まっていた。

5連目を引用しました。「要しちゃえばいい」の次の極意は「面白そうなとこから読んじゃえばいい」です。この詩の場合、「要するに」で並べた実際何をやったかの羅列で一番インパクトのあった第5連から読んじゃいましょう。こういうインパクトを残すからには作者もここにかなりの力点を置いているはずです。これを僕は便宜的に「転換」と呼びます。もしこの緊張の瞬間に作者からのなんのメッセージもなければそれはラオウとケンシロウが北斗練気闘座にて再開を果たしたにもかかわらず、やっぱ喧嘩はよくない、といって握手して別れてしまうようなものです。きっとなにかがあります!

そして、これはあくまでも僕の読みに過ぎないのですが、僕はこの第五連をみて「あれれ~おかしいぞ~」とコナン君も顔負けの推理力をみせました。皆さんも何かひっかからないか、ちょっと考えてみてください。


……埋葬ってふつうしないですよね?

もちろん火葬が一般化した日本での話ですが、調べると日本の火葬率は99パーセントくらいだそうで、埋葬するのはキリスト教やイスラム教など火葬が宗教的に駄目なパターン。または田舎などでまだ埋葬の風習が残っているところもありそうですが、

ここに一人、そこに一人、また埋葬が始まる

とありますから、そんな大量に埋葬文化圏の人だけが一斉に死ぬかな…?となりますよね。

さて、結論から言うと、僕はこの詩をこの第5連の描写から「火葬場がまわりきらないほど大量の人が亡くなった何かしらの災害」を想起しました。

当時2000体ほどの遺体を「荼毘に付す」ことが出来ずに、仮埋葬というかたちで埋葬し、後に掘り起こし改めて火葬したそうです。でももちろん具体的に東日本大震災をダイレクトに思い出さずとも、衛生的観点から一時的に埋葬せざるを得なかった状況を想い起すのは自然なことのように思います。

そう思うと、1~4連の要するにお茶を飲んで鳥の声を聞く描写、なんか違った風に読めてくると思いませんか?

これは何も、大きな災害にかんする詩だから荘厳な気持ちで読まなければならないとかそういうことではありません。

それまで何の気なしに雑に読んでいたものが、ある事実を仮定した瞬間にスイッチが切り替わるかのように違ったものに読めるというそのこと自体が面白いと思いませんか?

あるいは「意味が分かると怖い話」のような面白さかもしれません。一般的には短い文章で「どれだけ人をインタラクト」するかというこの「詩」というジャンルにおいて頻繁に目にするテクニックであり、「細部」が難しい故にどうしても読み慣れていない人が見落としがちな一番の見どころです。だから、「要するに」でとりあえず全部読むことの重要性を最初に伝えさせていただきました。

差異を読む

最初は「要するに」で読んで、面白いなと思ったところ(転換)から読む、最後に細部を読みます

最初の方にも述べましたが、詩は(たいていの場合)細部にその真髄が宿っています。細部を読まないなら単に要約を読めば済む話になってしまいます。でも詩の要約なんて聞いたことないですよね? それは詩が基本的には細部、つまり要約には記せない差異を書く文芸であるからです。

差異とは何か?
それを理解するためのとっておきの文章をあなたはもう読んでいます。この詩ですね。

1連目を再び読んでみましょう。

朝の紅茶はダージリンと決まっている。夜の網膜に色を乗せた絵筆を洗うとちょうどこんな色になるのだろう、ミルクを垂らすと渦を巻いて濁ってゆくその錆びた鉄の色は、ひと欠片の躊躇いも示さずに透明を手放し、トクンと音をたててから、ささやかなつぶやき声さえもその乳白に埋め込んで、ただ微細な振動だけを残してここで静かに。

最初に読んだ時にはなんだかまだるっこしいなあ、と思ったかもしれないこの描写も。先ほど仮定した事実によってなにやら、語り手の重苦しい心やそれに映る朝の色彩がストップモーションのようにゆっくりと語られているのが分かります。

僕はこの1連目で、ミルクをくわえる紅茶の色彩を「その錆びた鉄の色」と表現しているのがとても刺さりました。もしあなたが大好きな恋人とのデート当日に浮かれたおして淹れた紅茶の色を「錆びた鉄の色」と呼ぶかどうか想像してみてください。たぶんしないですよね。

少し脱線しますが、マルグリット・デュラスというフランスの作家が『モデラート・カンタービレ』という小説をかきました。そのなかでお金持ちの家に嫁いだ主人公が、あまりにも退屈な旦那との日々、上流階級の社交、子供の教育、に倦んだ挙句に食卓に運ばれてくる魚料理を見てこういうのです。

「魚の死骸が運ばれてきた」

あまりにも短い文章であまりにも多くのことを語っているその文章に当時衝撃をうけた思い出があります。この詩の「錆びた鉄の色」という表現も同じようにとてもびっくりしました。先ほどの5連目の謎解きと合わせるとこんな物語が浮かんできます。

たぶん自分だけは助かってしまった主人公が朝の日課であるダージリンを淹れる。夜というキャンバスに朝陽の色を差した絵筆を洗うように、紅茶は湯に溶けていく。それはどうにも錆びた鉄の色のように見えてしまう。

もちろんこれは僕の読みです。けれど詩において要約には記すことが出来ない差異を読むとはこういうことだと思うのですよね。


あまりつぶさに僕がどう読んだかを開陳してしまうと興を削いでしまいかねないので、あと2点ほど細部に触れて、あとはあなたがお好きなように解釈していただければと思います。


1点目

鶺鴒。強いもの。美しいもの。私の小さな掌でそっと包むことができたとしても、その鼓動の素早い高まりさえ、決して手に入れることはできないのだろう、その身体がどれだけ伸びやかに糸を空に引き伸ばしても、その小さな羽根が孕んだ慎ましい酸素の渦のたった一つでさえ私には。

先ほど「要するに鳥が鳴いている」と雑に読んでしまったところも、5連での転換を前提に読むと、この連はとてもセンチメンタルにおのれの「力の無さ」を誰に嘆くでもなく、静かに諦めているような描写に思われます。

鳥は飛ぶ生き物です。或いは地を這うしかない「人」という種族との対比なのかもしれません。もっといえば、津波と言うものにどうやっても抗うことなどできなかった人という種族との。

「酸素の渦」というのがとても悲しくも美しい表現で、当然5連目をあのように読んだ僕にはこの「渦」はかつて人々を呑み込んだあの突如陸に現れた海の「渦」とダブります。

また同時に、それが「酸素の渦」であることにも注目せねばなりません。震災の被害は当然ながら直接的に命を落としたり落とさなかったりしたことに留まらず、それを一生心の中に抱え込まなければならないことを強いられた方も多いでしょう。それはもしかしたら「酸素の渦」と表現されうるのかもしれない。だとしたら、このセンテンスで不自然に区切られた最後の「私には。」に続く言葉が自然と想像できるのではないでしょうか。

繰り返しになってしまいますが、5連目の転換がないと到底読めない差異であることが面白いのです。


2点目

唇にふれた陶器の表面の控えめな曲率は確かに、このように硬質であったなら、私の瞳は、瑞々しく磨かれた大理石の冷淡さで液体を冷やしながら、毅然と線を引くことができるのだろうか。

この場面最後の「線を引くことが出来るのだろうか。」というところ、主語が曖昧にされていますよね。少し長くなってしまっているので簡単に僕がどう読んだかを述べさせていただくと、この描写では、

全てがめちゃくちゃになった街に再び線を引き直すことができるか

瞳で引く線、つまり視線を冷静に保てるか

というダブルミーニングになっているように読めます、その視線の先に何があるのかは、あえて言及することを避けますが、これもまた5連目で仕掛けられた「転換」によって生じた差異です。


最後に

以上、「要するに」で読む。転換を(面白いところを)読む。差異を読む。の3つでお話をさせていただきました。

今回この詩を皆さまと一緒に読んでいくにあたって、できるだけ「面白い」とか「傑作だ」とか押し付けるようなことは言うまいと思い、この文章を書かせていただきました。なぜならそれはこの詩を読まれたそれぞれが思い描く感想ですし、僕がそう唱えることによって、「なるほど、面白いんだな」というような先入観は持っていただきたくないと思ってこれを書きました。

もしよろしければ、この詩をあなたがどう読んだか、どう思ったか教えていただければ嬉しいです。詩ってやっぱり難しいですか?




もしよかったらもう一つ読んで行ってください。