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センスと努力

センスだけでビジネスをやっているので、努力はほとんどしていない。

まさか自分がそういう生き方をするようになるなんて小学生の時にはまるで想像していなかったが、仕方ない。

センスだけでやってるから努力してないっていうと、めっちゃ怒られそうなんだけど、ある意味わたし一人でものすごくユニークな商品をゼロから作っているからこそ、このスタイルは超大事だと思っている。
努力して誰かに合わせると、途端にこの商品の意味が消える。
残忍なまでに、私は自分のセンスでビジネスを回さないといけない。

努力をしないことというのは、他人への努力をしないことということかもしれない。センスを保つために、それを出力するために、私は相当努力しているし、人間関係もバッサリ捨てたし、あるいは人間としての生き方として今の社会で良しとされているやり方に背を向けて、孤独死も覚悟している。
というか、長く生きられるかわかんない。

それらは、ただただ自分のセンスをこの世に存在させるためにやっている。

そして、あとはセンスの自動操縦機能に任せるのだ。

おかげさまで、通勤はしないし、好きな場所に住んで好きなことをしている。その気になればいつでも旅行に行ける。お金は、危ういけど生活できている!!!奇跡に等しい!!!伏して感謝する!!!
一日中エアコンつけっぱなしでも電気代払えてる。サイコー。

ここに至るには相当のハードな時がありましたし、基本的な「人間としての設定」がちょっと欠けている。実家・親戚縁者とはバッサリ絶縁しちゃった。友達も少ない。だから、人間としてはとても弱い。
弱いが、大変快適である。

変なストーカーも減ったし、特に若い女が何か活動してる時に出てくるファン面をしたおっさんが年齢とともに減ったのは大変良かった。
ちなみにアイドルのファンをやっているおじさんたちは「髪の毛と歯がすくないです」「あとトリプルワークが多いです」ということでした。金がないのにチェキは買う。

それはともかく、自分の生き方が基本想定外なので、どうにもならない。
センスだけで生きてる。
これだと、よく「若いころにためたセンスが枯渇する」って言いますけど、それも何となくわかる。わかるんだけど、それって「誰かのためにコンテンツを供給するうえでの枯渇」であることが多くて、ビジネスという活動ではまたちょっと違う気がする。
むしろ、経験値が増えれば増えるほどビジネスはどっちかといえば有利に運べる。デメリットは、向こう見ずなチャレンジが減るので、危ない橋を渡ろうとしなくなるということ。
大した規模じゃないなら、安全な道はほとんどないわけで、危険な橋を渡らないと何もできません。小規模ほど綱渡り。大事なのは、渡り切ったらそこは綱はただの道になるということです。
安全に生きたいなんていうのは、甘え。みんな甘えられるようになるために、必死で整備している。安全への配慮は基本命がけ。

センスを守り切るのも、まあ努力といえば努力です。
こうやってnoteを書き散らしているのも、文章の瞬発力を鍛えて失わないために書いています。筋トレ。

もっとできることはたくさんあると思う。
もっと、それこそ努力したらすごいことができるとも思う。
でもその前に、私はこの「センスだけで生きているから努力してない」感覚を得ることが何よりも大切だったんじゃないかと思っている。

そうじゃないと、努力はマスターベーションに等しい、生産性のほとんどない、たいして意味もない学生時代の部活みたいなものになる。
国体に出たからって、何になるの?という、努力上手になるだけ。
上達じゃなくて、単なる努力上手。
そういうの、学校では褒められるんだよね。最悪です。世に出たらその才能も役に立たせることなくくすぶって終わるという、人的資源の無駄につながっていきます。

結果を出さないと意味がないという世界をしらない、単なる努力活動の消費者になってもいいのは、恵まれた環境にいるたいして才能のない人だけです。
恵まれた環境にない人はその環境を変えるために動かないと生きていけないし、才能のある人はそれを生かさないと最終的に才能に取り殺される。

生き残るために、私は努力をしないように心がける。
センスだけで生きているから、努力はしていない。
この感覚を、もっと研ぎ澄ませていかないといけないと思っている。

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つよく生きていきたい。