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とても極端な世界とそれぞれの日常

まだ全然まとまらないのだけど、アートバーゼルに行ってみて、なにかが変わったり分かったりというようなものでないけれど、印象というのはあった。
(なんか美術館でインプレッシォン、つまり印象派という表記を辿ってばかりいたので、印象という言葉もゲシュタルト崩壊気味)

あそこは、とても極端な世界だ。
とてもとても極端な世界だった。

「あっ、よさそうなのがある。値段聞いてくる」
「10億円だって。悪くない」
「これは小さいから数千万円程度かな、たぶん」

価格帯ーーーー!
生涯年収かなーーー?

でも彼らにはそれが日常。
私の日常とは違うだけで。
ヨーロッパの日常とアジアの日常も違うけど、どちらもそれぞれ日常がある。

旅行者になると、すべてが非日常だけど、その地域ではすべてが日常。
逆に我々の日常にも非日常な旅行者が紛れ込むことがある。

この街では普通の道(チューリッヒ)

アートバーゼルは売り買いの場なので、金の話の場だ。
鑑賞の場ではない。
まず、その違いは大きい。私みたいな一般人からすると。

鑑賞と、所有は別の話だ。
所有して鑑賞しないものだってたくさんある。限定コスメ買ったけど使わないとかあるじゃん。
アートも買っても倉庫(ここもとても独特な仕組みの倉庫)に入れっぱなしなのはよく聞く話。

またこれらの規模になると、所有とは言え、「歴史を一時的に借りて次の世代へ渡す」という、ここも独特の感覚と価値観で回されている。
骨董、アンティークの世界ではよく聞く話。

でもそれももちろん大事だけど、既得権益を強める機能は強い。

あるいは「ついに俺もこれを持つ人間になれた」という、上のステージへのエントリーチケットのような感じもある。

アートバーゼルは、VIPデーと一般公開初日の2回会場に行った。
展示の内容は同じだけれど客層が違うらしく、一般公開のほうが空気がカジュアルに感じた。
VIPデーは何もわからずに行ったので、「こういうもんか」「ヨーロッパの人たちはこんな感じなのか」「アートの専門家たちはこういう感じなのか」という印象だったのだけど、翌日にもう一度会場を回った時は、もっとカジュアルな雰囲気を感じた。

なんというのだろう、ただ見に来ている人たちの存在だろうか。
VIPデーは、普通に商談会という感じだったのではないかと後になって思う。

一般公開日のほうが、派手な服を着た(わたしみたいな!)人たちがちょっと多かった気がした。VIPデーは、みんなバッグがシャネルとかバーキンとかで、男性はみんないいスーツ着ていて、それも遠目から「いいスーツ着てるな!」ってわかるような感じだった。

「あっ、あの後ろに立ってる人、超大手ギャラリーの偉い人だ」
「あそこを歩いているのが、この前言ってた大金持ちの息子で、逮捕された人」
「あー、あの若いアジア人、ちょっとえげつない商売やってるやつだ。親の代から金があるけど」
などなど、VIPデーは全員関係者。

特に顔の広い人は、数歩歩けば知り合いという感じらしい。

そしてみんな数億円の絵画やアート作品をゴリゴリ売り買いしている。

「この小さい作品、デ・キリコだよ。買う?値段聞いてくる?たぶん億はしない」
デ・キリコの絵を持っている自分というのは、いいなあと思ったけれど、数千万円か………。

A4サイズより小さいデ・キリコの絵(推定数千万円)


アート鑑賞には向かないのがアートバーゼルだ。
表面的に見るだけなら、「こんなものがあるんだ」とざっと見渡すだけで十分で、香港バーゼルのほうにアジア勢は集まっていて、苦労してヨーロッパまで行って見る必要は全然ないと思った。
ちょっと踏み込んだアート業界をのぞき見するというのなら、それで十分だと思う。

バーゼルバーゼルをのぞき込んだのは、案内人がいたことと、ヨーロッパはいったことないしな、という未知への挑戦という感じだった。
ちょっとした旅行で行くなら、一般公開日のチケットのほうがずっと安いからいいと思う。ただ見るだけならそれで十分だ。数億円のお買い物をする気がないなら。
数億円のお買い物をする気があるなら、ちゃんとその筋の人と人脈を作って、関係を構築して(詐欺師も多いので気を付けて)、作品を受け入れる環境を整えて、チャレンジしようねってことになるのだろう。
(私は急にその筋の人と知り合っただけなので、完全に異端分子)

あれは本当に、本当に本当に極端な世界だ。

アートの価値というのは、ピカソやシャガール、フジタなど、もう評価が確定している有名な歴史的な作品だからという点はとても強いと思う。
でも、新しい作家も続々生まれてくるわけで、彼らはどうやってその世界に、歴史的なポジションに上がっていくのだろうか。
大体は、そういうのを仕掛けてる画廊があるということらしいけれども。

現代アート系のフロアを見て、「世界トップクラスで固めると現代アートとはこうなるのか」という、なんとも言葉にしがたい空気が流れていた。

展示方法に金がかかっているせいなのか、とにかく全体に清潔感のようなものがあった。余裕のある空間、適切な余白。

「未熟なものや、未完成なものを多様性と言って逃げるのはダメだな」ということだけはビシビシと伝わってきた。

よくわからない事や、説明がしきれないもの、未完成のものを「アートです」と言って放り投げるのは、我々一般の世界ではままあるジョークだと思うけれど、ここではそれは通じない。
アートの世界でアートジョークは通じない。

我々の日常と、彼らの日常。
我々の非日常と、彼らの非日常。
感動をもって受け止められる非日常もあれば、嫌悪の対象となる非日常もある。

でも同じ人間なのに、という、どこかまぬけな祈りのような思いも混じる。
同じ人間なのに、話は通じないし、片方は金があり片方は金がなく、金があっても使い方が下手なやつもいるのに、金の使い方が巧いけどその才能を発揮できるほど金額を持っていないやつもいる。
才能を活かすのに十分な金の有無。
結局、そこに尽きるという事が強調されている場所だった。

誰もが新しい才能を待ち望んでいる。
でも、才能のほうがそこまで行けないのだ。主に金がなくて。
たまに、金があり過ぎてダメという事もあるけれど。

新しい才能は、彼らにとっては非日常だし、でもそれが日常になるくらいでないと安定した価値はつかない。

アートバーゼルに、例えば日本にもいくつかある美大の作品を並べたらどういうふうに見えるのだろう。

あと個人的に好きだなと思う絵を描いている若い画家さんがいるけど、彼女の作品はここに置けるだろうか。
ギャラリーの有無とかでなくて、ただそこに置いてみたらどう見えるだろうかと想像してみた。
想像しただけだけど、なんかダメだなと思う。
絵柄はいいのだけど、薄い。
うす味が悪いわけじゃない、でも味がしないのとは違うし、薄味をおいしいと受け止める味覚のある口に入れないと意味がない。
自分の絵を、ピカソの隣に置く。
そういう想像をしながら絵を描いている人は、作品を作っている人は、どれくらいいるのだろうか。

アートバーゼルで、どこにあってもすぐピカソと分かるピカソ。
他にたくさんの作品があって、ピカソもあって、バスキアもあって、しかし美術の教科書に載るような公共の作品という感じではなく個人が持っていたものであまり表に出ていないものがゴリゴリ並んでいて、それでもピカソはピカソだと遠目にもわかるし、バスキアもバスキアだ。
そういうところに、自分が同じく並び立てるのか?

アートバーゼルを見て、本当に広い会場にいろいろあって、美術館ではなく、むき身のアートが並んでいて、動物園じゃなくてサファリパークのようだった。

日本でよく見る「アートで日本を元気に!」みたいなのは、まあそういう薄味のお遊びで、そういうお遊びが楽しい人向けなんだと認めざるを得ない。

と同時に、むき出しのアート作品がゴロゴロしている中を歩き回って、「割と普通」という感じもあった。
超高級ブランドや高級ホテルなどの威圧感に恐れをなしてお店に入れない、みたいな怖さがあるのかと思ったけど、別に普通に床は床だし壁は壁だ。
そこに億単位のものがゴリゴリ並んでいるというだけ。
ヒューマンベーシックライツは存在する。

非日常も、その場に立てば日常の一部になる。
ただ、そこに行かないと、一生憧れのままだし。
それはそれでよい事だとも思う。

今回、大金(私にとっての)とパニック発作という不安、言葉が全く通じない世界という、ダメージしか想像できないところに行って見たわけですが、そして行ったところで金になるわけでもなし、先にいいものがあるかもわからないという、中身の見えない箱を開けたヨーロッパ・アート体験だったのですが、とてもとても面白い体験が目白押しだったので、なにがあったのかは覚えているうちに一気に書いておこうと思います。

一般人、アートバーゼルに行く。

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つよく生きていきたい。