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教養がなさすぎるせい

教養というのを、サラリーマンの副業に絡めたコンテンツとしてガンガン売り出している時期があったけれど、そういうの見ながら「つまらないな」と思っていた。

それを焦って知って一体何になるというのだろう。

と言いつつ、アートの世界をのぞくと、本歌取りに次ぐ本歌取りなので、あっこれはなんかわかってないとダメなやつだわ…というのがわかった。
というか、歴史背景を抑えてないとそもそも全部わからんのだ。

しかし、自分の中のわずかな記憶だけでも、意外となんとかなるもので。
記憶と知識の断片を組み合わせて、さらに自分の感覚をのせ、感覚が偏見に満ちた未熟な物かどうかを、いわゆる「解説」によって確認し、歴史的背景自体が偏りに満ちたものでないか考慮して、思考と知識と解説によっても自分の感覚を失わないように保つ、みたいなのがアート鑑賞のスキルみたいなもんかなと思っている。

まあ、それはともかく。

私が更新料を払った2~3カ月後に、大家のじいさんが出て言ってくれと言い出して、過酷なやり取りがあって、クソジジイ後期高齢者ならステイホームしてろ!と罵りながら(なにせ東京中が自宅待機になったような時期だったのだ)なんとか引っ越しすることになり、退去の鍵を渡し、手渡しで札束を(束というほどではないか……)受け取った。

その話を聞いて、友人が「国土回復!!」「スペインのレコンキスタのようです」「グラナダ陥落です」「馬に乗って行ってジジイに鍵を渡してください!」と大変楽しそうにしていた。

ビジュアル的には逆。宮殿の鍵を渡すのは左の爺王

壮大な戦いの末、国土を回復した大家のジジイと、1Kのアルハンブラ宮殿を追われる私。

空っぽの部屋の写真を撮って「無血開城」ってつけてSNSに投げたら、友人たちが割とウケていた。
無血開城するまでに流されたたくさんの血について、皆も考えてほしい。

教養というのは、「他人と共有できる話題」ということでもある。
ここに厚みがあると、誰とでもなんらかのお話ができるという強みでもある。

しかし、誰とでもお話できることは、別によい事でもない。
つまらない人の相手をしても、損するだけ。

教養があっても面白く使える人は少ないし、教養の量が少なくても面白く使える人はそれだけでとても楽しい。
教養をひけらかすことで他人を威圧しようという性格の悪い小心者(そう、大体そういう人は相手が怖いから威嚇する弱々しい心の持ち主が多い)の餌食になるなんてまっぴらだ。
そういうつまらない意地悪な小心者にけなされて「教養がなくてはいけないんだわ!」となるのはとても悲しい事だ。

しかし、教養がなさすぎるのも問題だな……と思う事例にも、なんやかんや出会うことが増えた気がする。

バカというのとはちょっと違うんだけど、割とバカも多い。
よくそれで大学出ましたね??と思う人も結構いる。
逆に、大学など行ってないが、凄まじい切れ味でその場をさらっていく人もいれば、この人がいないと職場が回らないという恐ろしいポジションにいる人もいるし、バチッとビジネスの勘所をつかんでさらりと持っていく人もいる。
バカだけどゴリゴリお客さん持ってる人もいるし、道で飲食店のクーポンを配るティッシュ配りみたいな仕事なのにその子が道に出るとお店に行列ができるほど呼び込む子もいた。

教養と、頭のよさと、センスと、能力は、それぞれ別の事である。
教養はないがセンスがいい人、例えばアスリートみたいなタイプの人もいる。
頭はいいが教養がないので表面的にはバカみたいな人もいる。
センスはいいが能力がないので、成果物が杜撰な人もいる。
みんな、なんらかの形で戦いに討って出て、なんらかの功名を立てている。

その時に、教養はあった方がいいな、という気がしている。

教養の量はそれほど多くなくていい。
「知っていること」がいくつかあれば、それを起点に「知らない事」がわかる。
知らないことがわからないと、本当に必要なことを質問することができない。

多くの人は、質問という形式をとって自分が言いたいことを言っているだけなので、大体相談は愚痴と惚気と文句です。

レコンキスタも、日本でいうと戦国時代的な混乱の歴史なので、その国の大名(王家)のスタンスと性格、立ち位置、宗教的背景がわからないと、「Nobunagaノブナガは虐殺王だったの?」「Akechiアケチはクーデターに失敗したってこと?でもそれが何でそんな歴史的大事件なの??」みたいなことになる。
アルハンブラ宮殿の鍵を渡すのがなぜそんなにも悲しい話なのか。
なんで比叡山延暦寺を焼き討ちが歴史的な遺恨になったのか。
わからんけど、どっちかでも背景を理解すると、なんとなくこれはあれに似ているのかな、と構造の想像がつく。それが合っているかどうかは確かめないといけないけど。

因みに「なんか外で測量している人がいたんですよね」という、測量している人の出現は家を追い出される兆候として、ほかの大家都合で家を追いだされた人と「それな」という話になった。

教養は、歴史や地理だけの話ではない。
商取引の話、新技術の話、いろいろある。

得意分野と無知分野があって当然だし、全部をまんべんなくおさえるのは難しいし、あわてて間違ったものを取り入れると「ああー……20年前の通説はそんな感じだったけど、今はそれは否定されてるんだよね」みたいなことはよくある。

教養という形にこだわる必要はないけれど、あまりに無知でバカな人が、真面目に善良に悩んでいるし、ちょっと金が欲しい・チヤホヤされたいと半端な下心で騙されている。
そして他人を軽視しているのに自分は大事にされないと嘆いている。
さらに、そういう人はもう信じられないほどつまらない。
面白くない。
他人に面白く思ってもらわなくてもいいだろうけど、それにしても面白みがなく、自分でもつまらなそうな人生で、ほんのちょっと他人に「美人ですね」と言われただけでめちゃくちゃ嬉しくなってしまう。

チャラ男に「えー、めっちゃかわいいじゃん」と言われて舞い上がってしまい、次に顔を合わせるタイミングではめちゃくちゃおしゃれしていったのに「だれ?誰かの友達??」とか言われてショックを受け、さらに「うわーまぶた腫れぼったいね!」と化粧が下手なところを一番言われたくない言い方でいじられて、ショックで真っ白になってしまう……みたいな純な人がそれはそれはたくさんいる。
20代ならそういう経験もあるだろうけれど、これが35歳以上になると、さすがにねー………となる。
分かってて、舞い上がっちゃうのはいいと思うけど、いくら初心ウブでもそろそろちゃんとしないとさ……みたいな感じはある。

いうて、これも教養の範疇ではなかろうか。

いつまでも恋愛に奥手でもウブでもいいし、それはそれで恋愛の楽しさだけど、それを自分の飾りに使うのはあんまりよくない事の方が多い。
(でも20代、30代前半までは死ぬ気でそういうのやり切って恥ずかしい思いの一度や二度はやってもいいと思う、それが教養ってもんじゃないですかね)

教養とは、体系だった学問や知識をもとに、自分の生活や活動を豊かにするためのセンスの事らしい。だから、材料となる体系だった学問、基礎知識が絶対にいる。スピリチュアルの知識はダメです。
(ほんとスピリチュアル業界は詐欺師と精神疾患のある人たちの溜まり場だから、それなりの覚悟で行って頂かないと)
そして、なんでも検定を取っているから知ってます、というのも、ダメですね。大体ダメです。なんで検定取っている人ってあんなにセンスないんですかね。検定が泣いていますよ(検定ビジネスなので大元はそういうセンスのない人が群がるのがとても喜ばしいでしょうけれど)。
検定取るタイプの人は、すぐに人に騙されます。騙されていると気づいていないので、大抵とても幸せそうで、すぐに上から目線で人にご指導されますが、本人は病弱で貧相な生活をしていることがとても多いです……。
義務教育、本当に大事よね。

教養は、「私は特別優れているの!」という感覚を、柔らかにならして、消滅させていく。

バキバキに尖った感性が必要な時は教養はあまり役に立たないかもしれないが、弱ってきている時は教養はとても便利でもある。

シャーロックホームズの中に、「くちびるのねじれた男」という教養をチラ見せするだけで金を稼ぐ男の話が出てくるけど、本当にそういう感じだ。

無力な者ほど力を与えるのが教養だ。
ただ貧困な暮らしだと教養の素になる体系だった学問に触れる機会がとても少ないので、教養なしでセンスとガッツでなんとかすることになって、のし上がったのちに、野生の勘で「これは教養があった方が早いな」という感じで教養に手を出す。

センスとガッツでのし上がった人間が、スキルと金をもって教養というフィールドに突撃していくのだから、怖いよね。
人格者で質素で、でも金の使いどころと贅沢を知っていて、チープもトラブルも楽しめ、バカにしてきた相手には容赦ない攻撃で叩きのめす、強い人たちがゴロゴロいる。

同時に、40代・50代でもそういうものがなくて、誰かに庇護されて生きようと媚びまくる貧相な人もたくさんいる。
大抵、いいカモである。

教養はなくてもいいが、なさすぎるとヤバい。
ちょっとある知識教養は、フル活用していく心構えで行くべきだし、たまには補給していく必要がある。

教養はあるなしで判断するのではなく、使えているかどうかで判断すべきなのだろう。
使わなくてもいい生活をしている人に、教養は無意味。
教養を使わなくていい生活というのは非常に貧相な、貧乏な、悲しく寂しい生活である。
そして、それは幸せかどうかとは、また別の尺度でもある。

貧相で幸せに生きているならそれも結構だ!
でも大体無理ですよね。


つよく生きていきたい。