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映画「バグダッドカフェ」

その日、特許庁からザ・縦割りって感じの電話がかかってきて、ゲリラ豪雨の境目あたりの変な雨が降っていて、少し離れた場所で雷鳴がとどろき、気圧が下がって私はやる気をなくして、意味もなくお粥を炊いていた。

Amazonプライムでバグダッドカフェが見れると広告が流れてきて、そういえば観てないよねと思ってみることにした。

おしゃれな映画として、例えばオリーブとかで俳優やモデルがインタビューで「②好きな映画・バグダッドカフェ」とかクレジットされている感じで知ったのが入り口だと思う。
人のうわさ話しか知らなくて、実体を見たことがない「サブカルの亡霊」みたいな存在でもあった。

話の内容がよくわからないし、バグダッドだからバグダッドなんだろうと思っていた。中東の国で、なんか白い布を体に巻き付けた人たちが小さいコップでコーヒーを飲んでいるのだろう、みたいなイメージを持っていた。

レビューは、心温まるヒューマンドラマとか優しい気持ちになれるとか書いてあるけど、実際に見たら全然違った。

砂漠の何もないところで、女性が夫らしき男と何かいさかいをして、カバンを持って歩いていく。男は車を運転して、どこかへ行ってしまう。

DVのよくあるパターンで、旅先や離れた場所に出かけて放り出して自分だけ帰ってくるみたいなことってよくあって、私は実際子供の頃よく車から放り出されて、どこかわからない場所でその辺にはえている草を見て時間をつぶしたりしていた。
大人になっても、そういうことをする男はいる。
家庭内暴力の状態から逃げてきたばかりの時は、似たような事になると過呼吸を起こして(その時はそれが過呼吸だとはわからなかった)、方向もわからない新宿をなんとか駅を探して夜道を歩いた。グーグルマップのない時代だ。

そういうことを、アメリカのモハーヴェ砂漠の中で。
それだけで、この世の乾いた悲惨な手触りだった。

重そうな荷物を引きずって、彼女がやってきたのが、ドライブイン。
ガソリンスタンドと、モーテルと、カフェと、空き地のバグダッドカフェ。

そこでなんか幸せな出来事でも起きるのかと思いきや、そこのカフェでは知的な障害がありそうな雰囲気の旦那を怒鳴りつける切れ散らかした暴力妻。
従業員のようななんとなくいる人、トレーラーハウスの生活保護者みたいななんとなくいる人、ピアノの練習をしているけどやめろと怒鳴られる息子、無邪気に遊びに行っては帰ってくる機能不全家庭チルドレン代表みたいな娘、ピアノを弾いている息子がうっかり作っちゃった赤ん坊……
客のこない、ゴミだらけで汚れていて、何もかもが壊れかけているバグダッドカフェ。

不幸しかない!
ここにあるのは、貧困と不幸と不潔と、フラストレーションだけ。

夫婦で経営する店がどういう崩壊をするのかは、当事者である私はよく知っている。そういう意味でもヒリヒリする設定だった。

田舎の、金もなくてどこにも行けなくて、なにもないあきらめと怒り。

こんな貧乏くさくて悲しくて誰も助からない世界のどこが心温まる物語で、カルト的な人気を得たのだろう。

バグダッドカフェにたどり着いた女性は、英語がよく話せない。
もう、さらに怖い事しか想像できない。
トラックにひかれたり、熱中症や脱水症状で倒れる事もなくカフェについただけでも、命があってよかったねって感じだけど、人間のいるところに行ったら強盗や強姦に遭いかねない。

たどたどしく宿泊手続きをして、ボロボロの部屋に行って、荷物を置こうとするけどホコリが舞い上がる。ベッドは南京虫がいそうで、観てるだけでひやひやする。
さらに最悪なことに、彼女は間違えて夫の荷物を持ってきてしまった……。

この時点で、不幸につぐ不幸、暴力と失敗と間違いと悲劇の5種盛り合わせ今日のお刺身セットみたいな仕上がりだ。
いわゆる映画らしい暴力シーン、殴り合いだとか血が出るとかそういうのはなくて、怒鳴り散らす、ドアを強く締める、歩いて戻れないような場所に放置されるなど、日常的な暴力に満ちていて、そこにしょうがないよねみたいな顔をして泣くことも苦しむこともしないで居続けるぼんやりした男たち。

誰も助かろうとしていない。

そこに、なにがあったか知らないけど、砂漠に放置された太ったドイツの女が身ぐるみひとつで現れる。
客にしてはおかしいし、英語もたどたどしくて、なんとなく警戒されたり珍奇な目で見られたりする。

でも居場所がない彼女は、とりあえず居場所を作る。
具体的にいうと掃除だ。
勝手に掃除をして、またそれをカフェの奥さんが不信に思って怒鳴りたて、すごく意地わるい詰め方をする。
でも彼女は、しょうがないから言葉少なくいるだけ。

でも、拒否されたり保安官を呼ばれたりしても、彼女はとりあえずそこにいる。そこにいて、赤ちゃんを見てはにっこりして抱っこしたり、間違えて持ってきてしまった夫の荷物の中にあったよくわからないマジックのセットをあけて使えるように練習して、みんなに見せたりする。

それが、なんとなく、みんなが仲良くなっていく流れを生み出す。

その流れから、なんとなく仲が良くなっていくだけではなくて、店が店として機能を取り戻していくところとか、働く人たちが楽しそうにするところとか、砂漠の中の不幸と悲劇とフラストレーションしかない貧困の場所が優しく楽しい場所に変わっていくところは、とても楽しい。

ちょいちょい入ってくる、独特な映像表現も、サブカルウケする。

だけど、それは美しいと表現するのは違うと思うし、心が温まるというのもまた違った。
寂びれて貧困で。
人とのつながりとか言うのも、つながりがあるせいでひどい目に合っている人たちばかり。あるいはひどい目に遭ったからそこに来ることになった人たち。置き去りとか。
画面で見ていると彼女が自分から出ていったという動きだから、置き去りだと感じない人も多いだろうけれど、車がないと移動できない砂漠地帯でどこかに歩いて行ってしまう人を止めないのは、自殺ほう助か意図のある置き去りと等しい。

そこでなんとかたどり着いた場所で、彼女が彼女なりのサバイバルをしたのは当然だし、それが人間のあたたかさを知るハートフルストーリーかというと、どうでしょうか。大事故に遭った時に、その場にいた人たちと助け合って仲良くなりました、みたいな話だとしても、その事故の悲惨さは消えないのに。

ただ、少しずつ怒りがほどけていって、英語もたどたどしい置き去り旅行者の女とちゃんと理性的な人間関係ができていくカフェの女主人の回復が見られるのが、この映画が支持される「救い」の部分なのかもしれない。
救いが急に消えて呆然とするような、めでたしめでたしで終わらないところも、それでいてぎこちないハッピーエンドのような形に持ち込もうとするところも、サブカルウケする。

とにかく全部が、かわいそうだった。
これからもみんなが不自由で、子供たちも未来がなくて、すぐに妊娠したり置き去りされたり、小突き回されて家から追い出されたりするのだろう。その中で信頼と尊厳を取り戻すのは、例えば英語がたどたどしい旅行者の彼女のようなイレギュラーカードを放り込まれるというラッキーがないとできない。
その、不幸の中のわずかな幸運を描いた映画だいうなら、とてもよくわかる。



合間合間に入る妙な画面や幻想のようなものは、いまいち背景がわからないので、そこら辺を理解できるものがあれば、もっと解像度が上がるのかもしれない。

つよく生きていきたい。