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現代アートを理解せねばならぬ

メロスは考えた。かの理解不能な現代アートを理解せねばならぬ。
適当に砂を盛った部屋や、紐を振り回す機械を置いて、「時間と時代の変化を表す」「空気の流れを可視化することでお互いが存在することを読み取り、そこに言語以外の関係性を」などと言われても、そうですね!としか言えないが、それにやたら感動する者や、大金を払ってそれを買う者がいる。

メロスは、エスタブリッシュな社交がわからぬ。
メロスは、一般人である。
美大を志望することもなく、美術館で有名なゴッホやマティスやモネの展覧会があるというので1500円から2000円ほどのチケットを買って見に行くようなつまらない民である。
しかし、この度アートバーゼルに行くことになった。資産バシェットはない。

とりあえず、現代アートである。
突然アートバーゼルに行くことにした私は、メロスのごとくなにも知らないのに現代アートのど真ん中&最先端に大金(私にとっての)をぶっこむことになったのだ。よくわからずにポカーンとして帰ってくることだけは避けたい。
セリヌンティウスの無駄死にである。

まず、現代アートの全体像をつかむのにこちらの本を読んでいる。

これはなかなか面白く、しかし分厚いので、それぞれの章ごとに面白いところをつまんでいく感じで読んでる。

なんでこんな値段になるのかという、一番下世話な部分がみんな知りたいんだけど、それ以外のおよそ現代アートと言われる世界の構成要員にはどんな人たちがいるのかをざっくり教えてくれて、それぞれの立場などを事例豊富に出してくれる。

特にいいなと思ったのが、つまり私のような一般人、アートコレクターでもなければアーティストでもない、アート市場の客にもならないが客になる可能性を持ち、金は払わないがそういうガヤがいないと盛り上がらない……という、どっちつかずの地位を与えられない鑑賞者たちの事を、それなりに重要な立ち位置であると論じているところです。

アーティストがいる、評論家がいる、コレクターがいる、キュレーターがいる。そこでほとんど世界は完結して金も回っているのだけれど、そこに「鑑賞者」たちが増えるほどにその作品には価値が上がっていくわけでもあり、彼らがいると持ち主たちの養分として非常によいわけです。
(ああ、人間の業!!)
搾取できる人たちがもっと増えれば、上のほうの人たちも潤う。という視点は絶対あると思うの。

でもまあ、せっかく鑑賞者という枠を立ててあるけど、そういう「ガヤと養分」の詳しい解説みたいなのではなかったです。
ただ、やっぱりキュレーターや評論家みたいな「専門的第三者」じゃなくて、ただの見るだけの第三者=鑑賞者たちは、現代アートにおいても重要な役割を持っていると思う。ある種、最も重要な。

あと、この本では、アーティストの創作のきっかけというか動機について、いくつかの項目に分けているのも面白いなと思う。
そういう要因があるよね、と書き出してもらうことで、見えてくることがたくさんある。後半についてる「現代アートをどういう視点で判断するかチャート」みたいなのも面白かった。
チャートで診断なんてできるはずがない、というのを実際にやってみるとどうだろうね、と。数値化が楽しいタイプの人はとても面白いだろうし、楽しくないタイプの人はその違和感によって何を求めていたのかを知るであろう。よい試みである。
セリヌンティウスの死を免れる可能性がある。

しかしだ。

現代アートと言って私たちが想像するのは、主にマルセル・デュシャンという点をもとにひっくり返された世界観だと思う。

私が大好き大好きなこちらの作品も、最後の最後に出てくるものは、デュシャン。

パリ1920年代、洗濯船バトーラボワール派のピカソやブラックたちに対して、ピュトー派と呼ばれた画家たちの一派の中にいたデュシャン3兄弟の末っ子、「絵を描くことを終わらせた男」こと、マルセル・デュシャン。

世界の芸術の中心地パリにおいて、印象派も、マネも、写実主義で政治的なクールベも、芸術的転換点として大きな役割を果たしていたけれど、ニューヨークに渡ったデュシャンほどのインパクトはなかった。

「絵を描くことを終わらせた男」とは、凄まじい二つ名だ。

こういう、中二病な感じが現代アートの本流にあるのだけど、それはなんなのかというと、ダダという存在が出てきた。

これは、バーゼルに行くにはチューリッヒを経由する必要があるため、チューリッヒについて調べていた時に気が付いた。

チューリッヒ観光には、チューリッヒ美術館、シャガールがステンドグラスを作った教会など有名どころがある。が、つらつらとみていたら「チューリッヒ・ダダ」というものがあり、それは今の現代アートが理解できないしっちゃかめっちゃかな理由の根っこを作っているっぽい事に気が付いた。

シュルレアリズムの少し前、第一次大戦の影響を受けた若者たちが「意味を壊せ」というヤケクソな文化祭を始めた。
新聞を切り刻んで言葉をバラバラにシャッフルしてつなぎ合わせて詩を作ったり、観客に罵声を出させるような不愉快なことをやってみたり、そういうことに熱中していった。
彼らはスイスに亡命していた若い文化人たちであった。

恐ろしいことに(?)それがスイスのチューリッヒだけではなく、フランスのパリ、ドイツのベルリン、アメリカのニューヨークと、同時多発的に広がる。
ニューヨーク・ダダの中心人物が、デュシャンだった。

ダダののちに出てきたシュルレアリスムは割と定着して、絵柄としても芸術表現としても安定したカテゴリを形成したけれど、ダダイズムは「無意味と、意味の破壊」を目的にしているので、何をしても壊すしかなく、長く残ることができない運動だった。
シュルレアリスムは、変だけど、むしろすごく意味が重い。
ダダは意味を許さない。意味とか絶対に許さない!死ね!という勢いなので、定着とか安定、特に他者に作品として見せる安定性がほとんどない。2秒で半減期に入ってしまう。

しかし、おそらくこの「意味を許さない!」という活動がかなり熱狂的にテンション高めに当時のイケてる芸術家たちが食いついていたということが、現在の現代アートのよくわからなさに脈々と受け継がれしまった気はする。

ダダの血は、そこかしこに残った。

そのせいでセリヌンティウスは死ぬかもしれない。
なにせ「現代アート」と入れると、Googleが「むかつく」とサジェストする。かの暴虐非道な王でなくても、群衆が怒りに任せて殺しに来るかもしれない。炎上不可避。

ああ、何も知らず、ただメロスを信じたセリヌンティウスよ。
現代アートがわからぬゆえに、無為に処刑されるセリヌンティウスよ!

その「わからなさ」はダダが意味を壊したからであり、「むかつく」のもダダがあえて不愉快さという刺激を追い求めたせいである。

ダダが意味を壊そうとしたからこそ、意味について皆がもっと精密に考え表現するようになったし、意味を深く考えるようになった。
ムカつくから、よりよい心地よさについて考えるようになり、今までの表面的な心地よさのうすら寒さにも当然気づいた。

そしてメロスは知ったのだ。
「一発屋にぶっ壊された価値観の荒廃した地で、みんな頑張ってるんだね!」「それが現代アートのひとつの課題かな!?」

なぜ芸術世界にすべてを破壊する一発屋が現れたのかというと、それは紛れもなく近代兵器を用いた広範囲に渡る第一次世界大戦の影響である。
現実にすべてのものが、人間も文化もそれらの関係も、悲惨な形で焼き尽くされ、その現場に立ち会った多くの人たちがいた。

戦争がアートを進めたのだ。
戦争は、医学も、技術も、アートも前に進めた。ある程度は壊したが。
「戦争をすることでよい戦争作品が生まれる」なんて話さえある。

それはそれで問題があるよな、と思う。
ずっと戦争のイライラをベースに作られた手法でやっていては、戦争のイライラという形の上に実った果実になってしまう。そのいくつかは、本当に戦争をまた引き起こすだろう。
だから戦争以外の実を結び、そうではない品種を伸ばしていくのも、また意味がある気がする。
とはいえ、それもそれでグロテスクなことかもしれない。人は戦いたいのだから、それを制御するなんて。

まあさておき、その前に私のメロスは無罪の友セリヌンティウスを救わなくてはいけない。自ら相手の命を人質に出しておきながら救わなくてはいけないなんていう、凄まじい自作自演であるが、セリヌンティウスを救わなくてはいけない。
現代アートの「わからなさ」「不愉快さ」という文脈は、ダダにあり。
しかもチューリッヒこそがそのダダの産声を上げた地であった。
バーゼルバーゼルで最先端を知るには、1916年のチューリッヒで起きたダダ活動が鍵になる。その後、1920年代にはシュルレアリスムという形へ定着していく。
表現主義や、抽象絵画などの様々な手法が入り混じり、同時に新しいメディウム(絵具や画材、素材、デジタル表現、あるいは身体表現)が次々と取り入れられるようになった。

世はまさに戦国、大航海時代である。
群雄割拠、しかも強ければ勝てるわけでもなく、弱ければ負けるということでもなくなった。
長期にその価値を保有することは難しいが、瞬間的に世界一有名な人になることもそれほど難しい事ではなくなった、ウォーホールが言うように。


ということで、セリヌンティウスは死なずに済むのだろうか。
それは、バーゼルバーゼルに行かなくてはわからない。

最悪、セリヌンティウス一人くらい死んでもいいかな、というのが、現時点での私の気持ちである。ここまで話が広いとさぁ、まあ誰かは死ぬよね。しょうがないよ。

そしてバシェットのないガヤと養分、つまり一般人にとっては、そういうところに入り込めるというだけでも割と面白い気持ちでいる。バシェットを持ってるコレクター様たちの養分として、現場を盛り上げてきたいくらいの意気込みになりつつある。

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