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コトバ

「まあ、言うよ。私もさ、めえめえが好きだ。じゃないと、旅なんて誘わない。うん。だけど、めえめえが好きっていう気持ちはグラデーションで、友情とか恋愛とか決めつけていいものじゃないかって、考え方があってさ」

「恋とそれとあと全部」/住野よる

「でも決められなかった。やっぱりグラデーションだ。この数日で気持ちはめちゃくちゃ大きくなった。昨日はめえめえの悪いことと繋げてしまったけど、めえめえがずっとスポーツしてたり色んな年代に接してきたからこそ手にしたはずの気遣いとか思い切りの良さも、私はすき。その中には、友情もあるし、恋愛もある。実際、めえめえだってそうだと思うんだよ。言ってくれたのは恋愛だろうけど、私に友情も感じてくれてる気がしてる。今回そうやってお互いに、好きな気持ちを持っているのが分かったわけだから」

「恋とそれとあと全部」/住野よる

「ありがとう。聞いて、私も、いや違う、私が、一緒にいてほしい。下宿仲間でクラスメイトで友達で恋人で、その全部で、どのどれでもいい。お互いの悪さもひどさもめんどくささも全部連れて。めえめえと一緒にいたいと今、思ってる。それが私の真剣に決めた自由で、放したくない不自由だ」

「恋とそれとあと全部」/住野よる

こんなところを読んでいると、果たして人間というものは、自分が信じているほどの自由意志をもっているのかな、と疑問に感じるのである。エミリーとシャーロットは人形の家の整備に一所懸命だ。これはしかし、彼女たちの意志によるものなのか、あるいは、人形たちの願いを生きさせられているのか、果たしてそのどちらであろわれわれ人間が、あの家が欲しいなどと思って、それを手に入れるために節約をしたり、借金をしたり、がむしゃらに働いたりしているとき、それは家が欲しいという自分の意志に従っているのか、「私を買ってください」というその家の願いに動かされているのか、あるいは、われわれがその存在をさえ気づかない、ある人形の願いに動かされてやっているのか、このあたりの見きわめはなかなかむずかしいのではなかろうか。人形をひとつのものと考えると、人形と同じくこの世のすべてのものは願いをもっており、縦横無尽に張りめぐらされた、ものたちの願いの網のなかで、人間はそれらのうちのどれかをキャッチして、動かされて生きているのではないか、などと考えさせられるのである。

を敬う隣人たちははらわたを掴みとられないようにサイレンの音に耳を塞ぐ。やぶにらみの目でなくては愛することはできないし、窓の外の氷のように冷えた通りを見るためには盲目にならなくてはいけない。私は死にかけていた。私は出血していた。医者は言った。「永久に出血することはありません。血が出つくすか、どこかで止まるか、どちらかです。永久に出血するってことはありえない」私の場合には永久に出血するみたいに思えた。エレンが電話をかけてきて死にかけていると言ったとき、私ははっきりとこう言った、「お願い!私も死にかけてるのよ、エレン」

自我を自分と思っていると、自分は肉体が死ねば死ぬものとしか思えない。死に対する恐ろしさを必ず感じる。これに対して真我が自分だとわかると、悠久感が伴い、実際の季節の如何にかかわらず春の季節感が必ず伴う。

「自己とは何ぞ」 (『岡潔「日本の心」』所収)

童のこのわかり方は、「感覚的にわかる」のである。「形式的にわかる」といってもよい。
もう少し深くわかるのは、意味がわかるのである。これを「理解する」という。しかしこ
こにとどまったのでは、いろいろの点で不十分である。まず知的にいって、進んで「意
「義」がわかるまでゆかなければいけない。でないと、えてして猿の人真似になってしまう。
意義がわかるとは全体の中における個の位置がわかるのである。だから、全体がわからな
ければ何一つ本当にはわからない。このわかり方はいわば心の鏡に映るのである。
しかし、いま言おうと思っているのはそれではない。たとえば他の悲しみだが、これが
本当にわかったら、自分も悲しくなるというのでなければいけない。一口に悲しみといっ
ても、それにはいろいろな色どりのものがある。それがわかるためには、自分も悲しくな
らなければだめである。 他の悲しみを理解した程度で同情的行為をすると、かえってその
人を怒らせてしまうことが多い。軽蔑されたように感じるのである。
これに反して、他の悲しみを自分の悲しみとするというわかり方でわかると、単にそう
いう人がいるということを知っただけで、その人には慰めともなれば、励ましともなる。
このわかり方を道元禅師は「体取」と言っている。ある一系のものをすべて体取すること
を、「体得」するというのである。

「不二の美」は、今、一番
醜でもなく、美でもないものです。
美と醜とがまだ分れない前のものです。
美と醜とが互に即して了うものです。
反面に醜のない、美それ自らのものです。

2 境界をまたぐ
土方巽がアスベストホールの七輪で魚をあぶりながら、こんなことを言っていた。私と
澁澤龍彦をはさんでいささか悪い酒を呑んでいた雑誌記者が、暗黒舞踏の象徴ともなった
全裸白塗りの理由を問いただしたときである。
長い蓬髪を姉さんのようにうしろにしばり、机に組んだ両腕をついた着物姿の土方は、
まずゆっくりと唇をなめると、東北訛りで「あのね、踊りというものは境い目をまだぐんですよ」とぽつりと言い、ついで目を細めて「それには裸にならなぎゃならんでしょう、色を捨てなぎゃならないわけですよ」。そこで土方は髪をかきあげ、ニヤッと笑った。

フラジャイル/松岡正剛

芸能は境い目を好む。では、芸能が境い目に発生したのはなぜなのか。境い目は弱いも
のたちが集うところであったからである。では、なぜ、境い目には弱いものたちが集うの
か。それは、境い目に強い神をおいたからである。

フラジャイル/松岡正剛

内側でも外側でもあるものの最もわかりやすい例は、かつては日本家屋に代表的だった縁側だったろう。縁側は内部であって外部にもなっている境界だ。子供時代、私は縁側から雪見障子のガラスごしに座敷のほうをむいて紙相撲の実況をするのが好きだった。イスラム建築にも似たような縁側的回廊が工夫されている。かれらはその回廊をつかって、あののびやかなコーランの朗唱を内外にめぐりめぐらせる。
軒下や軒先も外であって内である。 神社もどこからどこまでが神社という内側で、ど
こからが神社でなくなる外側かはわからない。 町中の鳥居のあるところは、外であって内なのだ。このような縁側的なるものは、われわれの近くのどこにでも、たとえば、すぐそばのドアのあたりにだってある。そこはいつだって内だか外だかわからない。

フラジャイル/松岡正剛

「それって運命は変えられないって意味?」
「そう、 何もかももう決まっているんだって。ひどいって思うかもしれないけど、変え
られないって思ったら僕は楽になった。 何かを望むから苦しかったり悲しかったりする
んだと思う。幸せでも不幸でもない、それでいいんじゃないのかな」
彼女は眉間に皺を寄せて、しばらく考え込んでいた。やがて、「あなたって変わって
いるのね」と首を傾げた。
「普通は慰めたり励ましたりしない?」

けれど、家に漂うハーブの匂いはなんら心に響かない。
癒しなんて口当たりの良いことを言いながら、単なる逃避なのだろう。かぐわしい匂
いに包まれて、自分だけは離れたところにいられるという安心感。 違う、本当の安心は
他人の血の匂いだ。 恐怖と絶望に凍りついた眼だ。離れたところから見ることができる
不幸。 懐かしい暗がりと湿り気。
だが、私は笑って答える。

つまり興味深い事実があって、充実した人生を送っている人も、退屈でつまらない人生
を送っている人も、共にその自覚がないということだ。二つ目の集団、つまり、ひょっと
したら自分の人生は退屈でつまらないものかも知れないという疑いと不安を持っている
人々だけが、充実や退屈について考えている。そして、ずっと不安状態で生きていくことはできないから、やがて二つ目の集団の人々は、一つ目の集団か三つ目の集団のいずれかに吸収される。もちろん大多数の人々は、一つ目の集団に吸い込まれていく。
これまで充実して生きてきたと思うか、とわたしはマキに聞いた。そんなことは考えた
ことがない、と彼女は答えた。

木の床はかすかに湿っぽく、冷たかった。俺たちは抱き合ったまま横たわった。
誰にも理解されないと思っていた。
わかったようなことを言う女が大嫌いだった。でも、小波なら許せると思った。
きっと小波は理解なんてしようとはしていない。頭や感情ではない、直感で俺を自分と同じだと嗅ぎわけたのだろう。俺たちは身体の奥底から滲みでてくる匂いが同じだ。
欠けたところが似ている。さびしい獣同士だ。
身体をぴったりと触れ合わせていると、丸いひとつの生き物になっていくような気がした。

澪はしばらく黙っていたが、小さな声で言った。
「あなたの“好き”はどんな "好き"なの?」
「え」
あなた、という言葉にひそむよそよそしさにひるんでしまう。けれど、返事は求められていないようだった。は淡々とした声で喋った。
「世の中には持っているものを全て与えようとする〝好き"もあれば、何もかも分け合おうとする〝好き”もある。 "好き"だから殴る人も、"好き"だから決して触れない人もいる。"好き"だったら何をしてもいい、どんな禁忌も犯していい、その想いがあればどんな行為も許されると疑いもなく信じている人もいるわ。 "好き"というのは、そういう恐ろしい感情だとわたしは思っている。 あなたはきっとそんなことを考えずに生きてきた人だと思う。そのまともさに惹かれる気持ちもやっぱり”好き”なの」
うつむく。「わたしの "好き"も」と、太股の上で手をぎゅっと握りしめる。
「きれいなものじゃないかもしれない。といると時々そう感じる。でも、耀からは奪いたくない。奪い合いたくない。耀が好きなの。大切なの。わたし、きっと輝しか好きじゃないの。マカロンも果物のケーキも可愛い雑貨や食器もぺたんこの靴も本当はどうだっていい。耀に似合うものが好きなの。 幸せのイメージに近付いていく気がして。 近付いたら変われる気がするの。何もかもを捨てられる気がするの」

シッダールタの前には一つの目標が、ただ一つの目標があった。それは、むなしくなること、渇きから、願いから、夢から、喜びと悩みからむなしくなることであった。自分自身から死に去ること、もはや我でなくなること、むなしくなった心で安らぎを見いだすこと、我をむなしくした思索の中で世界の驚異に胸を開 くこと 、それが彼の目標であった。 いっさいの自我が克服され、死んでしまったら、心の中のあらゆる執着と衝動が沈黙したら、 そのときこそ究極のものが、もはや自我では

もどることはできない、長年いとなんできた生活は過ぎ去り、嘔吐をもよおすほど
に味わいつくし、吸いつくした、という一事しか頭になかった。彼の夢みた歌い鳥
は死んでしまった。心の中の小鳥は死んでしまった。彼は輪廻に深く巻きこまれて
いた。海綿が水をいっぱいに吸いこむように、彼はあらゆる面から嘔吐感と死とを
吸いこんでいた。彼はもう飽き飽きしていた。みじめさと死とでいっぱいだった。
彼を誘い、喜ばせ、慰めうるものは、この世にもう何ひとつなかった。
自分のことはもう忘れたい、安息を得たい、死にたい、と彼は切望した。 電光が襲ってきて、自分を打ち殺してくれればいい! トラが襲ってきて、自分を食ってくれればいい! 麻酔と忘却と眠りをもたらし、二度と目をさまさせない酒か毒が
あってくれればいい! わが身をけがさなかったようなけがれがあったろうか。自分の犯さなかったような罪や痴愚があったろうか。自分の背負いこまなかったような魂の荒廃があったろうか。 生きることはまだ可能だったろうか。 くり返しくり返し息を吸い、息を吐き出し、空腹を感じ、また食い、また眠り、また女と寝ることは可能だったろうか。この循環は彼にとってつきはて完了していはしなかったか。

「声」について
声をだす、かける、たてる、あげる、あらげる、はげます、おとす、しぼる、
ふるわす、しのばせる......。 声は人間の生理の、深くやわらかな部分に直結しているらしい。そして声を発することは、声を発するという行為を支える状況性と、声を発する者の現前性と、声の向けられた相手の特定性とをまきぞえにして成り立っている。声は私の体内から出るものでありながら、口から発せられたあとでは他人と共有されてしまう。 声を発することがもつ暴力性、 凌辱性と、声を人前にさらすことへの羞恥という両極性も、それらのことと無関係ではあるまい。

これまでで、僕は最大の誉めことば言えると思ってるんですけど、ある波瀾万丈の女の人がやってきたんですが、とてもみめ麗しいお洒落な人だったんです。その人は五、六年かかってよくなってきた。ありがとうございました、と御礼に来たときに、僕にいちばん最初に会ったときのことが忘れられないと。
本当に不思議でしたが、先生は私の顔にも服装にも全然注意をしておられなかった、と言うんです。きれいな人がきれいな服着ているわけですからね。先生は、私の言うことにも全然注目していませんでした。 そんなん全部捨てて、もし魂があるのなら、それだけをじっと見ておられました、と。

だからこの自同律が不快なのかしら
なんらかの神がいる、でもってその存在を信じている、つまりなんらかの宗教に属
してる人を、無神論者の人は笑う傾向にあり否定する傾向にあるけれども「神があ
る」「神はいない」と主張する点において両者はまったく同じであるわけであってつ
まりどちらも「ある」「ない」、どちらかを「信仰してる」ということで大丈夫なのか
しら。
人は論理に則って思考するとき、論理を「信仰」してはいないだろうかしら。 1+1=2を「信仰」してはいないだろうかしら。人々が「私」と発語するとき、その無反省さの根拠はどこにあるのかしら。「私は私である」つまり立派に「自我」を「信仰」しているのではないのかしら。「信仰」に理屈は不要なのだからそれでいいのだけどもいいのかしら。 言語を持たない脳と会話することは出来ひんし、我々はやっぱ「言語以前」を知らないのだったし、ここで行われてることってつまりはいったい何かしら。

「あんまり働いて見せると、お父さまがおつらいでしょうよ。」
「そう。お母さまのように、働いていると見せないことは、たいへんね。 家のなかっ
て、細かい糸をいっぱい張り渡して持たせてあるようね。どこかちょっとゆるむと、
直ぐ崩れて、縺れてしまう。そうなるときりがないでしょう。人には分らなくても、
自分にはそのゆるみが一番敏感に来るんですもの。 意気地なくしおれてしまうの。」
そのかわり、父や弟の身のまわりにも細かく触れていると、愛情の血管が太って肉がしまって、父の老いこむのを一人で引き戻しているような張合いもあって、生命感が充実して来る。

新八は冷たく笑いながら、私の答えを待っていた。私は黙っていた
「なぜ死の瞬間から、生きてる人間は死人を礼拝しなければならんのか
次の日にはもう、科学の材料として沢山の医学生に切り刻まれるのにで
きてる人間共がするそういうことを一切知らない。」

「それはそうでしょうよ。足音に限ったことでなく、なんだってそうでしょうよ、考
え方によってはね。 でも、あなたの例の神経質ですわ。」
「でも聞いてごらん。 都会の足音は病気だ。みんな僕のようにびっこじゃないか。自
音分の足をなくしたので、健かな両足の感じを楽しもうとして来たのに、人間の病気を
一つ発見しようとは思わなかった。新しい憂鬱を植えつけられようとは思わなかった。
この憂鬱はどこかへ払い落さねばならない。おい。田舎へ行ってみるんだね。 人間の魂も肉体も都会よりは健康かもしれないから、若しかしたら健かに揃った両足の音が聞けるだろう。」

理屈は単純だ。「本質」を知らないからだ。この世には「本質的」ということがある
ということを知らないからだ。目に見え手に触れられるものすなわち物質、だけがこの
世の全てと思っているから、見えもせず触れもできないものすなわち精神、精神そのも
のとしてそこに居るような人を捉える仕方がわからないのだ。人はわからないものが恐
いから、あれは○○主義者だの××論者だの名付けて安心しようとするのだけど、そん
なの無駄、全然無理。 なぜと言って、物事を考えるときのベクトルが、最初っか
とは逆の側を向いているからである。 共産主義運動の真最中、福田はまあこんな大正論
を言い放っていたのだ。

そう、私も時には「我ら」と語る。その外延は那辺にあるかって、決まってるじゃないですか。 「人類」ですよ。人類の普遍的精神ですよ。 「私」が語るときは、普遍が語っているのですよ。このことにかけて私は少なからぬ自信がある。ダテにこの年まで考え詰めてきたわけじゃない。そこらの同世代の僕ちゃんたちとは、覚悟が違うのである。

絶望的な勘違い。私ならこう言う、「哲学とは何か」。
①考えることは技術ではない。技術によっては考えられない
② 何の役にも立たない。かえって困る、苦しくなる
③自分とは何ものでもないという不可解に、自失する狂気である。

夏月は思う。既に言葉にされている、誰かに名付けられている苦しみがこの世界の全てだと思っているそのおめでたい考え方が羨ましいと。あなたが抱えている苦しみが、他人に明かして共有して同情してもらえるようなもので心底羨ましいと。
夏月の全身には、最も熱い部分と最も冷たい部分が共存していた。脳の中の沸騰し
ている部分からはどんどん言葉が溢れてくるけれど、それを瞬間冷凍させるくらい、
どんな言葉で説明したところで無駄だ、という巨大な諦めがそのすぐ傍にある。
そもそも、誰かにわかってもらおうと思うこと自体が無駄なのだ。私の人生は。

「正欲」/朝井リョウ

「神います。」
自分が彼女を不幸にしたと信じていたのは誤りであることが分った。身の程を知ら
ない考えであることが分った。人間は人間を不幸になぞ出来ないことが分った。 彼女
に許しを求めたりしたのも誤りであることが分った。傷つけたが故に高い立場にいる
者が傷つけられたが故に低い立場にいる者に許しを求めると言う心なぞは驕りだと分
った。人間は人間を傷つけたりなぞ出来ないのだと分った。
「神よ、余は御身に負けた。」
彼はそうそうと流れる谷川の音を、自分がその音の上に浮んで流れているような気
い持で聞いた。

「神います」/川端康成

あなたと会っていない時にも、あなたをずっと感じている。
自分一人でも持て余すのに、あなたの気配までをまとって、けれどいっそのこと
よけいなものの多い方が持ちこた れるようにも思う。
体がからっぽなのです。
天井から光がさしてくる。 暗くなった部屋にあなたが灯をともしたのだ。
まだここにいたの。
あなたはびっくり たように言う。
動けなくて
あなたはわたしの肩をおす。 力をこめなくとも、わたしはすぐに倒れる。紐を巻
いて。手首だけでなく足首にも腰にも胸にも首にも。
あなたは首をふる。いい、なのか、いやだ、なのかわからない。
もっとつないで。わたしがぬけだしてどこかに行ってしまわないように、もっと激しくして。もっとみたして。
あなたは後じる。逃げないで。わたしが言うとますます後じさる。
あなたではだめなのだ。誰でもだめなのだ。 わたしの中のからっぽはわたしにしかみたせない。でもわたしでわたしをみたそうとすると、わたしが裏がえって表といれかわってわたしはますますからっぽになってしまう。
わたしの手首にこの前あなたが巻いた紐を、あなたは切る。畳の上の白く細くは
かないもの。わたしは少し泣く。恨んで泣くのではない。体のしめりけを少しでも
払おうとして泣くのである。

こぼれでていってしまいそうなものを押しとどめ、腕にかこみ、もう一度すいこむ。体ぜんたいがふくらんだようになり、すぐにまた元へ戻る。
内臓や筋肉や水や血にみたされたわたしの体。切ったら血が出るよとあなたが言う。気がつくと刃でやわらかなところを傷めている。 にじむ血。ほら出てきた。
あなたは刃を取りあげる。
まだわたしは自分の体をつかまえることができていない。先へと行ってしまう体。
こんなにもからっぽなのは、わたしが体に追いつけないからなのか。
あなたといる時だけわたしの体はみちている。気持ちが一点にあつまる。その一点からみたされてゆくわたしの体。
あなたの体が離れてしまった後も、少しの記憶がのこる。体の記憶。壁に背をつ
け、記憶をよびおこす。 すでに遠くなっている記憶はかすかなさざなみをもたらす。
からっぽになった体に、ほんのわずか戻ってくる波。眠くなる。

何度も何度もそういうことがくり返されてきたんだと思う。そのときどきに、いまある仏教は仏教じゃないと言った人たちは、天才やら直観やらでそういうことを言う。新しい仏教としての大乗仏教の開祖みたいに言われるナーガールジュナなんてそうだったんだと思う 。
その人の思想をもとにしてまた体系をつくっていく人たちがいて、これが新しいほんとうの仏教だと言う。そしてまた違うものができてきて、これはほんとうの仏教じゃないと言い続ける、たぶん真理って全部そういうものだと思うよ。全部違うんだという人たちがいない限り真理なんてありえないわけでしょう。それはなぜかというと、真理なんて現象の世界です。

いいかね。集団の時代はもう終ったのだ。集団の時代が終ったということは、おもき画一化をすべての建前としている現代史の、実は最も怖るべき秘密なのだ。
われわれのやり方は、集団にたよらず、アッピールをせず、 黙想によって人間悪の
核心をおゆるし、人間を自滅させる行き方なんだ。悪が孤独な詩のようになり、詩が孤独な悪のようになっているのが、現代の本当の状況なんだよ。みんなは集団化と画一化の果てに戦争がはじまるように思っているが、実は一人の個人の小さな詩から戦争がはじまるのが現代なんだよ。

ふと知らないメロディーを聴いて「ああ、これは何だろう」と惹きつけられることがあるでしょう。 それと同じように美しい映像に惹きつけられて「ああ、これは何だろう」と人びとに思ってもらえるような映画を作ってみたい。けれども、名前がわからないということは人を不安におとしいれます。新聞やテレビも一年間ぐらい絶対に固有名詞を使わず、たんに彼、彼女、彼らという主語で事件を語
ってみるといい。人びとは名前を発音できないために不安にもなるでしょうが、題名も作曲者もわからないメロディーに惹きつけられるように事件に対して別の接し方ができるかもしれません。

次のような自由、あえて言えば愛の流動性とでも呼べそうなものをそなえた社会集団を想像してみてはどんなものか。すなわち、その集団の人々は、姓抜きの個人名やシフターだけを使って話をし、誰もがみな、《私》、《明日》、《あそこ》などとしか言わず、法律的なものいっさいへの言及をしない、という集団だ。また、そこでは《差異の輪郭がぼやけていること》(差異のもつ微妙さやその無限の反響を尊重する唯一のやりかた)こそ言語のもっとも貴重な価値であるということになるような集団である。(ロラン・バルト 『彼自身によるロラン・バルト』 佐藤信夫訳)

太宰治『人間失格』に、「自分は、空腹といふ事を知りませんでした。いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育つたといふ意味ではなく、そんな馬鹿な意味ではなく、自分には『空腹』といふ感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかつたのです。」という部分があります。
私は、それを読んで悲しくなりました。そういうセンチメンタリズムに浸ってみることは、自分自身をやさしくします。これをもじって言うなら、私の場合、「自分は、満腹という事を知りませんでした。」 となります。

ところが、そういう人間でも子飼いの弟子をつくろうとするのです。自分はいろいろ
な分野をウロウロしていたくせに、なぜそんなことをしたがるのかとおかしくなってし
まいました。人間は、すぐテリトリー化してしまう不思議な生き物です。

男は集落のやり方に準じ、娘に名前を付けないことにした。名前を持たないことで、
娘がここで不自由を感じることもなかった。名前が無いことで、押しつけられるような
個性や責任も生まれなかった。名前が無いことで極端な競争は無かった。名前が無いこ
個人的な差別など存在しなかった。みんなは神の子、 自然に生かされ、自然に死んでいくだけのこと。個人的なコンプレックスや、文明社会で尊ばれる個性というものを、彼らに説明したら笑われるだけだろう、と男は考えた。広場を走り回る自分の血を引いた娘を見ながら、男は個性などという言葉で人と人とを区別しなければならなかったかつての世界を未熟だと思った。個性は生まれた時から万人にある。

循環って言ってもそれは閉じた循環ですから。
玄侑 全体性には行かないんですね、どうしても。デヴィッド・ボームは『全体性と内臓秩序」(青土社)という本で、現代人はそろそろこの全体性に思いを致さないとエラいことになるって、警告してます。シュレーディンガーなんかは、結局量子論っていうのを受け容れるためには、ブッダと老子の認識を学ばなければいけないだろうってはっきり言っていますよね。
養老 ドイツ人って、ある意味田舎もんだから、割合そういうことがわかるんですよ。

社会学の個人化論では、選択肢が増えれば増
えるほど、選択の実現確率は低下するというテーゼがあります。なぜなら自分の選択肢が増えるということは、相手の選択肢も増えているのです。
相手から選択されない確率もどんどん高まる。「雇用の多様化」と似たところがありますね。
そのとおり。 確かに多様な仕事が選べるけれ
ど、自分も相手に選ばれる立場になってしまうので、なかなかおたがい相思相愛にはならない。 規制緩和や自由化が進めば、格差が出てくるのは当然の帰結なんです。

要するに私が青と感じて、皆さんが赤と感じているものを、逆に入れ替えても、はじめからそういう約束事でしゃべっているから、言葉のうえではほとんど矛盾が生じない。実は言葉というのは、クオリア自体を表現することはできますが、クオリアの中で起こっているさまざまな量的な関係は表現することはできない。それを我々は主観と言います。そういう、頭の中で主観的にどういう感覚が生じているかということは言語にはならない。それはなぜかというと、言語は外部に表出された記号だからです。

「あなたがいないとき、私は死んでいるのよ」
私は訴える。
「僕も死んでいる」
恋人は、簡単なことみたいにそうこたえる。ソファに横たわり、おいで、と言って、
両手をのばす。私はそこに、身体を埋める。
私たちはぴったりくっついたまま、じっとしている。私には、私が「苦しい」と言っていることが恋人にわかっているとわかる。恋人は手や足のすべての神経をやさしく澄ませて、私の身体から「苦しみ」をとり除こうとしてくれる。窓から弱い風が入る。私たちはそうやって待つ。なんとかやりすごそうとする。恋人の身体はすごく雄弁に、あやすように私の身体を抱いている。
やがて私は恥かしくなる。それで身体を起こし、恋人の額に唇をつける。彼の「治療」へのお礼だ。
恋人は私の目をみつめ、私が分別をとり戻したことを知る。

近代科学がものごとを区別すること、「切る」ことを最大限の武器としているのに対して、変性意識の場合は、ものごとを融合させ、関係づけることを武器にしている。近代科学にのみ頼っていると、人間は世界から「切れて」、孤独になるし、生き てゆくことに潤いがなくなる。それを補ってくれるのが、「関係」を第一と考える意識であり、それは「宗教」につながってくる。

それがどれほど精緻に構築されていたとしても私にはその嘘が透けて見えてしまう。
シュンとの関係もまた虚偽だった。二人の間にも真実と呼べるようなものは一つと
してない。
そこはこの世界を司る法則、原理のようなものだから誰にしても逆らったり斥けた
りはできないのだ。
それでも私がどうしてもシュンと共に生きようと願うのは、人生が大事だったり、
有意義なものにしたいからではさらさらなくて、ただ、この悲惨でどうにもならない
世界で、何か一つでもいいから信ずるものが欲しいゆえだった。
神の存在を信じられれば幸福だろうと思う。
だが、私にはまだ神の存在を信じる心は育っていなかった。今後も、おそらく死ぬ
までそういう心は育たない気がする。

で聞こえたような気がしたけれど、もちろん空耳だろう。
三千万年後は、夜のない世界になるんですって。あたしがそう声に出して言うと、
江ノ島のひとは、びっくりしたような顔になった。そうなの。江ノ島のひとは言い、
それからあたしに背を向けた。そうなんです。歩み去ってゆく江ノ島のひとの背中に
向けて、あたしは呼びかけた。
そうなんです。 三千万年後には、このあたりは、暗闇のない世界になるんですよ。
いったいどうしたらいいんでしょう、あたしは。ねえ、どうしたらいいんでしょう。

境目とは、そもそも何なのだろう。
境目があるところには、区別がある。わたしたちはものを認識するために、区別という
ことをするにちがいない。そこには、好きも嫌いもない。ただ、区別を行うために、境目
を設定する必要がある、というだけのことなのである。
もともと、認識のためにつくられた「境目」である。しかし、ときに境目というものが
ほんらいの目的から離れ、ものごとの「区別」だけでなく、「差別」や「暴力」をよびよせることがある。くやしく悲しいことである。悲しくくやしいが、珍しいことではない。ごくごく、ありふれたことである。世界のどこにでも起こりうることである。自分が
「差別」や「暴力」にまったく関係ない、と知らんぷりすることは、とうていできない。
いつだって、自分がそのようなものに寄り添ってしまう可能性は、あるのだ。
境目を引く行為は、非常に困難なものを呼び寄せる可能性を持つ行為である、

「わたしはね、パフェのこの上の部分しか食べたくないの。 ここはフルーツやらなんやらがおめかしして、いろいろ載ってるし、 可愛いし、最高でしょ。でも、ここを食べ終わっちゃったら、掘れども 掘れども、ずーっとバニラアイスとコーンフレーク。 なにか出てくるかもと思って食べ進めて行くんだけど、 現れるのはアイス
の水分を吸ったしなしなのコーンフレークだけだよ。 わたしはこの完璧に演出された部分しか、見せたくないの。 だから、 泊まりたくないし、一緒に朝ごはんも食べない。 日常は見せたくないの。 朝ごはんを食べるってことは、 バニラアイスゾーンに入りかけてるってこと。 だから、バニラアイスゾーンに入っちゃったら、 お互いの素の醜さとか、 自分勝手さとか、そういうのと向き合わなきゃいけなくなる。 その胆力が、わたしにはないんだよ」

あるクオリアに対して私たちが付加する言語のラベルは、そのクオリアに対して貼り付けられる志向性として成立している。私たちの心の中に感じられるクオリアの中には、いまだ、言葉のラベルが付けられていないものも多い。そのようなクオリアに対しては、志向性のダイナミックス、文脈の中で、そのクオリアに対して特別に用意された志向性のラベルが存在しないのだと考えられる。クオリアと言葉のラベルの間の関係はそもそも一対一ではなく、クオリアの世界、言葉の世界がそれぞれある程度自立的に存在していて、その間に、志向性の「○○へ向かう」という性質を通して関係性が成立するのである。
第1章で、北極圏に住むイヌイットが微妙に異なる白の色に対する多くの言葉を持っ
ていることは、必ずしも彼らの感じている白のクオリアが多様であることを意味しない
と述べた。このことは、様々な白の質感が存在しているクオリアの世界と、言葉の依拠
する志向性の世界が独立して存在し、クオリアに対する言葉のラベルは、志向性の世界
からクオリアの世界へ志向性が貼られることに対応するという右のモデルに基づいて考
えれば、より明確に理解することができるだろう。すなわち、私たち日本人とイヌイッ

「あの子はそうやって折原さんの代わりになるものを必要としていたのでしょう。ただ、
その父親と息子とは、最後までおかしな関係にはならなかったみたい。大学をでて就職
してからね、多絵ちゃんが男をゲームとして、とらえるようになったのは」
信じられない、いや、そんな話は信じない、そう折原は叫びたい衝動にかられた。
ずっと白だと思いこんでいたものを、じつは黒だった、原因はあなたの目の錯覚から、
と予告もなしに否定され、嘲笑された心地がした。
グラスをのぞきこむふりを装いながら、折原は冷静さをかろうじて保つ。
「ゲームというのは?」
「簡単に言うと、男の心をもてあそぶこと。その気のない相手を、だんだんとその気に
させておき、自分に夢中になってきたなと見きわめたとたん、そのひとをほうりだす。
相手は年上から年下まで幅広かったですね」もし、それが本当なら、多絵子をそのようなエキセントリックな、たちの悪い女にさせたのは自分なのか。そう思わざるをえないのは、彼が多絵子を抱いたとき、彼女は処女だったと確信しているからだった。 折原は心中の苦々しさをウイスキーで流しこむ。
しかし、それも、あるいはこちらの勝手な思いこみだったのだろうか。玲子という婚
約者のいる折原を、いっとき、からかってみようというこんたんだけだったのか。
だから、あんなにも超然として、折原と別れられたとも考えられる。

わたしを感傷的にするものは唯無邪気な子供だけである。

第十二章 火星人は赤を見るか
どの単語を使うか 前もって言うこともできる。
科学者として、自分の記述の完全さを疑う理由は何ひとつない。
あなたには大満足したあなたは私のそばに来て、フローチャートを見せながら言う。 「ラマチャンドラン、これがあなたの脳のなかで起こっていることですよ」
しかし私は異議を唱えるにちがいない。 「確かに脳のなかはそうなっているんでしょう。しかし私はそれと同時に赤い色を見るんですよ。このチャートのどこに赤があるんですか?」
「それはどんなものなんですか?」 とあなたは聞く。
「言葉で表現できない現実の色の体験の一部で、どんなものかをあなたに伝えることはできません。なぜならあなたは、まったく色の見分けがつかない人だからです」
この例から 「クオリア」の定義が一つ導かれる。クオリアとは、私の立場から見たときに、科学的な記述を不完全なものにする私の脳の局面である。
二つめの例として、非常に知能の高い電気ナマズがアマゾンに生息していると想像してみよう。その電気ナマズは、あなたや私と同じくらいの知性と教養を備え、そのうえ私たちにないものをもっている 皮膚の特殊な器官を使って電場を感知する能力である。先の大科学者と同じように、あなたはこの魚の神経生理を調べて、体の横にある発電器官が電流をどのように変換するか、その情報がどのように脳に伝達され、脳のどの部位で分析されるか、その情報をどのように使って捕食者から逃れたり獲物を見つけたりするのか、などを理解することができる。しかしこの魚がしゃべれたら、きっとこう言うだろう。「結構でしょう。 しかし電気を感知するというのがどんな感じがするものか、あなたには決してわかりません」

そんなものを作るより、模型の方がきれいでいいんじゃないんですか。これが、ごくふつうの人の反応。 それに、実物はなんだか気持が悪いじゃないですか。
模型と標本の区別がつかない。これが人工物で覆われた、現代社会に住む人間の、いちばん悪い癖。テレビで戦争を見ていれば、戦争に参加したつもりになっている。
模型を虫眼鏡で見てごらんなさい。なんとも単調な、砂漠みたいなものが見えるはずである。自然の造形という意味では、砂漠の方がはるかにましであろう。

ある人を「同じ人」だと思うのは、そう思っているだけである。自分のことを考えた
って、若い時といまとを比べたらけして同じではない。若い時ならとうてい想像もでき
ないことを考えたり、したりしている。若い時、私は人前に出たら口がきけなかった。
それがいまでは図々しく講義や講演をする。その自分といまの自分を同じだと思ってい
るのは、そう思っているだけのことである。名前はたしかに同じだが、これは勝手に変
えると怒られる。それでわかるが、名前はもともと他人のためにあり、自分のためにあるものではない。物心つく前から名前がある。その時代の名前こそ、他人のため以外のなにものでもない。自分では名前のあることすら、皆目わからないからである。脳死やら植物状態やらでは、反応がないからまだましだが、精神病のために相手が違った反応をするようになると、まず家族がひどく苦しむ。 家族には、相手がいままでと同じ人間のはずだという強い思い込みがあるからである。 変わってしまった相手の、新しい状態に適応するのは、容易なことではない。そこに多くの悲劇が生じる。しかし、これならいわば個人的な問題である。政治家はそうはいかない。大勢の人の運命に関わるから
である。

分別がつく、すなわち分化が生じるためには、他方では、基準がなくてはならない。
まったく無関係なものが生じることを、「分化」とは言わない。同じ受精卵という細胞
から生じる諸器官だからこそ、これを分化と言うのである。 カエルの足とヒトの頭が、
それぞれに「分化」したとは言わない。こういうものは、始めから無関係だからである。
現代の困ったところは、この「基準」である。始めから、関係があるのかないのか、そ
こがよく分からない。だから、「分化」したのか、していないのか、それが判然としな
い。こういうのを、話にならない、と俗に言うのである。
人を食べた人がその説明をしたり、人を殺した人が生い立ちの小説を書いたり、

学校の授業に注意を集中できない子どもがいると、私たちは、教室や学校の組織化のあり方を問うより、まずその子どもの行動様式を変えようとする。またホームレスを目のあたりにすると、差別や不平等の歴史的な経緯を問うより、その人を失敗者と見なす。 あるいは既存の性別やジェンダーにうまく合致しない人を見ると、「正常性」の定義を疑問視するより、精神疾患、あるいは身体疾患を抱えている人と見なす。 子どもの行動、差別、 ジェンダー適合性は、精神病を引き起こすわけではないとしてもスティグマをもたらす。 当面の課題は、スティグマやそれに対する恐れを緩和するために、過去や他の社会から学んで文化の創造的な力を生かすことにある。 文化が、 精神疾患や発達障害をスティグマに結びつけられるのなら、間違いなく文化は、その結びつきに切れ目を入れることもできるはずだ。

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