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タクシードライバーの物語

慣れない路線で急行と快速急行を乗り間違えて目的の駅を通り過ぎてしまった。「ちゃんと表示を見て乗ってください」と駅員に注意を受けるが、こちらとしては不可抗力だ。もっとわかりやすくしてほしい、KQ線。
軽くイラつくと、悪いことは続くもので、戻りの列車も乗り間違えた。再び通り過ぎる目的の駅。ロスタイムにますますイラつくが、こうなったらもうしょうがない。諦めた。諦めてタクシーに乗ることにした。目的の場所は駅から徒歩30分近くかかる。

タクシーは案外すぐつかまった。目指す場所を告げると、ドライバーは「東◯◯6丁目のですか?」と訊いてきた。そうです、と答えて大船に乗った気持ちになる。実は前日も別の駅からタクシーを利用したのだが、場所が分からないからと拒否されかけて、ナビで調べてと住所を告げるという事件があったばかりだったから。人を運ぶのが仕事だろうに、カーナビがないならともかく、わからない場所をなぜ調べようとしないのか、東京のタクシーの七不思議の一番めだ。

「◯◯スタジオに行かれるということは、お客さんは芸能人ですか」
走り出してすぐにこう尋ねられた。吹き出しそうになる。こんな地味で大荷物なおばちゃんを見て芸能人もないだろうに。スタッフですと正直に答える。するとこんな言葉が返ったきた。
「うちの息子、39歳なんですけど、音楽家なんですよ」

ドライバーさんの息子さんはピアニストだそうだ。芸能関係はコロナで大変でしょう、うちの息子も……と言葉が続く。わかる、痛いほどわかる。外出自粛の暮らしは劇場などに集客するイベントを軒並みなぎ倒したし、非公開でのスタジオでのリハーサルも目指す本番がなくなってほぼすべて中止になった。スタジオでの音楽収録もあてがなければ中止や延期になったと聞いていたから、ジャンル問わず、芸能関係には茨の道が続いた。共感しまくりだ。ドライバーさんは共感を求めていたのだろうか?

ーー私、今年で67歳なんですよ。え? 見えないって、若く見えますか? 嬉しいなあ……ああ、そうそう。39歳の息子ね。コロナで仕事がぜーんぶ飛びましてね。息子が言ったんですよ、「父さん、大変だ。仕事が全部飛んだ! スケジュール帳、真っ白だ!」って。はい? お客さんも同じだって? そうでしょうそうでしょう、芸能関係は厳しいですよねえ。震災の時と一緒ですよ。あの時もね、息子が「大変だ!」って言いましてねぇ。仕事が飛んで、予定真っ白。
でね、私、言ってやったんですよ。焦ってもしょうがないから休んでろって。音楽なんてすぐに結果は出ないでしょ。息子にはとことんピアノで頑張ってほしいですから、力貸してやろうって決めてるんですよ。だから5年前に酒もタバコもやめました。俺が健康でいないと息子もピアノに打ち込めないですから。息子にも健康でいないと踏ん張れないぞって言ってます。我ながらいいお父さんですよね、まあでもこんなんだから息子は独身のままかもしれませんけど。39歳で独身。あははーー

惜しい。耳を傾けつつ「いいお父さんですねえ」と合いの手を入れるつもりだったのに先に言われてしまった。そして息子さんが独身なのはこの親子の関係性で推測できる。もし妻がいたら、お父さん、そこまで出番ないでしょう。
いいお父さん、とも思うけど、もうちょっと突き放してもいいのではと思ったりもし、でもお互いに腹割って話せる親子関係はいいよなと思ったり。10分程度の乗車時間で父と息子の物語のとっかかりを聞かせてもらった気分。

ーー実は私、元々はコンピューター関係のエンジニアでアメリカにいたんですよ、息子はアメリカ生まれでーー

このタイミングで車は目的地に到着。待ってー、その話が聞きたいぞー! お母さんの影が全く感じられなかったの奥さんがアメリカの人で一緒に日本に来なかったからなの?? それとも何か悲しいことが起きてしまって、息子と二人で帰国したの?? あなたが息子さんを溺愛する理由はアメリカでの生活に隠されてんじゃないの?? 教えて、もっとそこんとこ聞かせてー!

ああ、プロファイルしたかった。
たった10分ほどの時間と800円ほどで目的地に運んでもらっただけでなく、美味しい素敵な親子物語を聞かせてもらってだいぶ得した気分。
本当はあの人は何を求めていたのだろう。ただ話を聞いてほしかっただけ? いいお父さんだと自分が言う前に何度も言ってほしかったの? それとも、違う自分を演じていたとか。こんなに愛して尽くしてるのに、息子さんは利を得るだけで本当はお父さんと距離を置いていて、せめてタクシーの中だけではいい親子関係だと言って回りたかった?

想像は尽きない。

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