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サブカル生まれ当事者育ち

サブカル≠当事者

昔からモヤっと思ってることなんだけど、本屋などでサブカル系の雑誌や本の表紙イラストとか謳い文句を見かけると「おっ」って惹きこまれるものが多い。
けどいざ中身を見ると表面的な部分だけを面白おかしい言葉でつらつらと書いてるだけで、確信を突いていることもなければ新事実を書いてるわけでもない。
結局写真を眺めて終わる。
この手の本は立ち読みするくらいが丁度いいなってなってしまう。

と同時にああ、おれはサブカルそんなに興味がないってことなんだろうな、とあるときに思った。
サブカルはあくまで外野であり信者側なので、たとえどんなにスモールワールドであろうと「当事者」でいないと面白みがないという自分のようなタイプにとって、サブカルはまったく肌に合わないのだ。
自分のことなんて誰も見てなかろうがファンがいなかろうが、傍から見てどんなにつまらない人生だろうと「自分を生きる」ということをある種命題として生きてきた。

出発点はサブカルだったかもしれないが「誰かに憧れることの虚しさ、憧れからの脱却」の中でもがき苦しんで自己の探求に全力を注いできたような人生だったので、10代のある時に二股に分かれた道の正反対の方(しかも人が少なく閑散とした道)に進んだ人間としての矜持みたいなものが、サブカルおじさんおばさんに対する拒否反応を起こしてしまうのかな~なんて思った。

けど、自身をサブカル人間だと言い続けてるお笑い芸人の永野は面白いなあと思う。
あの人の場合サブカルというよりはカウンターカルチャーって感じだけど、毒吐きながらもサブカルに寄り添いつつ当事者に対するリスペクトも忘れてないという、ある意味現代を象徴しているような気もするからだ。
だからこそ、その毒針が多くの人に刺さってるんだろうしカタルシスでさえあるんだろうなと思う。

そう考えると、それはセンセーショナルな売れ方をしたまさに「当事者」であるアーティストやバンドと同じ現象とも言える。
特定の人に憧れたり信者になったりアンチになったりしてきた永野はサブカルであることを突き詰めた結果、当事者になった。
サブカルを拗らせたら救いようがないが、サブカルを突き抜けると「当事者」になる。
「真似を本気でずっとやり続けていればいずれ自分のモノになる」という誰かの言葉があるけど、サブカルを自分のモノにしてしまえばそれはもう「サブ」ではなくなるということかもしれない。

初めの方でも言ったようにファンがいなかろうが無名だろうが、「当事者」になることは試練の連続だ。
そのために必要なのは強い矜持と志であり、愛なんだよね。

初投稿がこんな取り留めもない話になってしまいましたが今年も宜しくお願いいたします。
ではではアディオス太郎チャオ丸水産

サブカルって何回言うんだよおれ

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