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ニーチェ「子供の哲学、遊びの哲学」

ニーチェの哲学は子どもの哲学であり、遊びの哲学です。子どもは遊びを創造するのが得意で、楽しいことが大好きです。一方で、大人は楽しさよりも義務を優先してしまう傾向があります。これが人生をつまらなくしている原因です。大人も楽しさを追求し、遊びを創造すべきです。

遊びに夢中になっているときは時間を忘れます。永遠の中にいます。一方で、義務を行っているときは時間を気にします。進まない時間の中にいます。「永遠回帰」とは、大人がイメージするような「嫌なことをずっと繰り返すこと」ではなく、「ずっと遊び続けたい」という子どもの気持ちを表したものです。

「没落」は、太陽の日没に由来しています。ツァラトゥストラの没落とは、「子ども」が日没まで遊ぶことを指します。「暗黒界にも光を運んでゆく」とは、日が暮れても遊び続けることを示しています。

「超人」とは、スーパーマンのことではなく、「無邪気な子ども」のことです。小さな子どもの中には倫理は存在しません。したがって、子どもは同情しません。好奇心で虫を殺して楽しむこともあります。自分で遊びを創造し、やりたいことを追求します(力への意志)。自分の世界(善悪の彼岸)で遊んでいます。

永遠回帰、超人、没落、力への意志、善悪の彼岸は、「子どもの遊び」と結びついています。ニーチェの哲学は難しく考えてはいけないのです。

「超人」になることは難しいことではありません。子どものようになれば良いのです。子どものようになれば、自分の世界を取り戻すことができます。

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人間が存在しはじめてからこのかた、人間は楽しむことがあまりに少なかった。そのことだけが、わたしの兄弟たちよ、われわれの原罪なのだ。
『ツァラトゥストラ』「同情者たち」

わたしは、偉大な任務を相手として取り組むのに、遊戯以外の方法を知らない。遊戯こそは、偉大さを現わすものであり、その本質的な前提のひとつである。ちょっとでも自分を強いてしている様子、暗い表情、堅い声調、それらはみなその人間の偉大さにたいする反証である。その人間の作品の偉大さにたいする反証であることはいうまでもない!──神経過敏ではいけないのだ──
『この人を見よ』「なぜわたしはこんなにも利発なのか10」

そうこうするうちにも、私は、暖かくなった足でわがオリーブ山を縦横無尽に駈けめぐる。わがオリーブ山の陽だまりで、私は歌い、一切の同情を嗤う。──
『ツァラトゥストラ』「オリーブ山にて」

そしてわれわれがよりよく楽しむことを学びおぼえるなら、われわれは他人に苦痛を与えようとする気持などは、きれいに自分のなかから払い落としてしまうだろう。また他人の苦痛になることを考え出すようなこともなくなるだろう。
『ツァラトゥストラ』「同情者たち」

わたしは、子どもたちの遊ぶこの場所に喜んで身を横たえる、くずれた石垣のほとり、あざみと赤いけしの花の咲くところだ。わたしは、子どもたち、またあざみと赤いけしの花にとっては、今も学者だ。これらのものたちは、悪意においてさえ無邪気である。
『ツァラトゥストラ』「学者」

(詩人が悲劇を書くのは)恐怖や同情を避けずに乗り越えて、生成の永遠の快楽そのものになるためなのだ、破壊の快楽をも抱含しているあの快楽に──
『この人を見よ』「悲劇の誕生」

わたしは低いところに下りなくてはならぬ、おまえが夕べになれば海のかなたに沈み、かなたの暗黒界にも光を運んでゆくのと同様に。おお、あふれこぼれる豊かな天体よ。わたしも、おまえのように下りてゆかねばならぬ。わたしが下りて訪れようとする人間たちが没落と呼ぶもの、それをしなくてはならぬ。
『ツァラトゥストラ』「ツァラトゥストラの序説1」

子どもとは、無垢であり、忘却であり、新しい始まりであり、遊びであり、おのずと回る車輪であり、第一運動であり、聖なる然りを言うことである。そうだ、創造という遊戯のためには、兄弟たちよ、聖なる然りを言うことが必要なのだ。今や精神はおのれの意志を欲し、世界を失った者はおのれの世界を勝ち取る。
『ツァラトゥストラ』「三段階の変身」

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