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ニーチェのキャラクター

ニーチェは10月15日生まれの天秤座です。 天秤座は風の星座で、活動宮(新しく始めることが得意)です。また、金星が支配星(美を象徴)です。ニーチェと天秤座の性質は一致しています。

強力な風のように、われわれはかれらを超えて生きたい。鷲の隣人、雪の隣人、日の隣人として。強力な風はそういうふうに生きるのだ。
そして、いつの日かわれわれは、風のようにかれらのただなかに吹き入り、わたしの精神でかれらの精神の微弱な呼吸を吹きさらおう。わたしの未来がそれを意欲するのだ。
まことに、ツァラトゥストラはあらゆる低地にたいして強力な風である。かれは、おのれの敵と、つばきを吐くすべての者に、こう忠告する。「風にさからってつばきを吐くな」と。
手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』「賎民」

幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しいはじまりである。
氷上英廣訳『ツァラトゥストラ』「三段の変化」

崇高な者よ、君はいつの日か、美しいものにならねばならぬ。そして自分自身の美しさを鏡にうつしてながめねばならぬ。そのとき、君の魂は神的な欲念のためにおののくだろう。そしてその美しさを誇りながらも、高いものへの愛慕が君のうちに湧くことだろう。
手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』「崇高な者たち」

力強い魂には、高貴な身体がふさわしい。美しい、意気揚々として、人の目をもよろこばす身体、そのまわりの一切のものが、それを映す鏡に化するような身体、しなやかな、ひとに有無をいわさぬ身体、みごとな舞踏者の身体。自己自身に快楽をおぼえる魂とは、この身体、この舞踏者の象徴であり、精髄にほかならない。こうした身体と魂との自己快楽が、みずからを「徳」と呼ぶのである。
氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った』「三つの悪」

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赤や黄色が好きな人は右脳型の傾向があるため、ニーチェも右脳型の可能性があります。

深い黄と熱い赤。わたしの趣味はそれを欲する。──わたしの趣味は、すべての色に血を混ぜるのだ。だが、おのれの家を白く上塗りする者たちは、白い上塗りの魂をさらけだしているのである。
手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』「重さの霊2」

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「理性ですべてが説明できる」と考える人は左脳型の傾向があります。

‪そういう有頂天と、そういう悪ふざけを、私は、かの意志の代わりに置き据えた。「どう見てもありえないことが一つある──理性ですべてが説明できるということ、これだ」と私が説いたときに。‬
‪「日の出前」‬

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ニーチェは戦闘的であり、攻撃的パトスを持った人物です。

わたしはわたしの本性上戦闘的である。攻撃することはわたしの本能の一つである。敵となりうること、敵であること──これはおそらく強い天性を前提とする。いずれにせよ、これは、すべての強い天性の所有者に起ることである。こういう天性は抵抗するものを必要とする、従って抵抗するものを求める。攻撃的パトスが強さに必然的に伴なうものであることは、復讐や遺恨の感情が弱さに伴なうのと同断である。
手塚富雄訳『この人を見よ』「なぜわたしはこんなに賢明なのか7」

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ニーチェは潔癖症です。

わたしの天性のもう一つの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか?これがあるために、わたしは人との交際において少なからぬ難渋をするのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺──とでもいおうか?──もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚し──かぎわけるのである──わたしは、この鋭敏さを心理的触角として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。
手塚富雄訳『この人を見よ』「なぜわたしはこんなに賢明なのか8」

自分自身に対しての極度の清潔癖が、わたしの生存の前提となった。わたしは、不潔な生活条件のもとでは命があぶない──だから、わたしはいわば、たえず水の中で、もしくは、なにか完全に透明で光り輝いている元素の中で、泳いだり、ひたったり、ぱちゃぱちゃしている。この潔癖のために、人との交際は、わたしに少なからぬ忍耐の試練を課するのである。わたしの人間愛とは、他人がどういう人であるかを感じ取ることにあるのではなくて、わたしがその人間を感じ取ることに耐え抜いているということにある・・・・・・わたしの人間愛は絶えざる克己である。──しかしわたしに何より必要なものは孤独なのだ。つまり、快癒、自分への復帰、自由で、軽やかで、遊びたわむれる空気を呼吸することだ・・・・・・
手塚富雄訳『この人を見よ』「なぜわたしはこんなに賢明なのか8」

このような「潔癖症」のために、人との交際はニーチェにとって「小さからぬ忍耐の試練」となっている。したがって、「私の人間性は絶えざる自己克己である」と言い、「私は孤独を必要とする」と述べる。そして、ここで彼は『このようにツァラトゥストラは語った』全篇が「孤独への讃歌」であり、「純粋さへの讃歌」であると言い、「『賎民』に対する嘔吐」がいつも「最大の危険」であったと言う。
岡村康夫『瞬間・脱落・歓喜 ニーチェと永劫回帰の思想』より

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ニーチェはインドア派ではなくアウトドア派です。

多くを、そして多種類を読むのは、わたしの流儀でないらしい。書斎などというものは、わたしを病気にしてしまう。多くを、そして多種類を愛するのも、わたしの流儀ではない。
手塚富雄訳『この人を見よ』「なぜわたしはこんなにも利発なのか3」

わたしは自分自身の思想のためにあまりにも熱をおびてきて、身を焼かれるのだ。そのためわたしは、しばしば呼吸さえ奪われそうになる。そのときわたしは埃まみれの部屋を捨てて、大気のなかへ出なければならない。
しかし学者たちは冷ややかな日陰に冷ややかにすわっている。かれらは何事につけ、ただ観照者であろうとする。そして太陽が灼くように照りつける階段に降り立つことを避ける。
手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』「学者」

私は放浪者であり、登山者だ、と彼は心の中で言った。私は平地が好きではない。私は、長いこと腰を落ち着けていられない性分のようだ。 今後、どんな運命や体験が私に訪れようとも、──それも放浪となり、山登りとなることだろう。
森一郎訳『ツァラトゥストラはこう言った』「放浪者」

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ニーチェは自然の中で重要な啓示を受けました。彼は単に書斎の中で思い浮かんだ理屈を並べ立てる哲学者とは異なります。

さていよいよ『ツァラトゥストラ』の歴史を物語ることになる。この作品の根本着想、すなわち永劫回帰思想、およそ到達しうるかぎりの最高のこの肯定の方式は 、 一八八一年八月に誕生したものである。それは一枚の紙片に走り書きされ、「人間と時間を越えること六千フィートのところ」と添え書きされている。あの日、わたしは、シルヴァプラーナの湖畔の森を散歩していた。ズルライ村からほど遠からぬところにある、ピラミッド型にそそり立つ巨大な岩のほとりにわたしは立ちどまった。そのときこの思想がわたしに到り着いたのだ。
手塚富雄訳『この人を見よ』「ツァラトゥストラ1」


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ニーチェが言う「大いなる正午」は、書斎で文字だけを見ていても理解できるものではありません。真の意味を理解するためには、正午に外に出て、自分の真上に輝く太陽から直接光を浴び、熱を感じる必要があります。

同様に、「没落」も同じです。沈んでいく太陽を自分の目で見なければ「没落(日没)」の意味は理解できません。

太陽の動きから着想を得たニーチェの主題である「永遠回帰」も、実際に太陽の動きを自分の目で見なければ理解できません。ニーチェの哲学を理解するには、頭の中だけでは十分ではありません。

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ニーチェは定住する民ではなく、流浪の民であり、子どもたちの国を目指す旅人です。

かくして私が愛するのは、私の子どもたちの国だけとなった。いまだ発見されざるその国は、はるか彼方の海上にある。私は私の帆に命ずる、その国を探せ、探せと。
森一郎訳『ツァラトゥストラはこう言った』「教養の国」

まだ踏まれたことのない幾千の小径がある。幾千の健康なありかたと幾千の隠れた生命の島がある。人間と人間の住む大地とは、今なお汲みつくされていず、発見しつくされていない。
手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』「贈り与える徳」

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ニーチェは音楽の愛好家です。

子供のときからわたしは音楽の愛好家であったし、いつでも良き音楽家たちの友でもあった。このことから・・・わたしが今日の人間たちにかかわりあう理由をほとんど持たないという結果が生じた。──なぜなら良き音楽家たちはすべて隠栖者であって、〈時代の外〉にいるからである。
浅井真男編訳『ニーチェの言葉』(彌生書房)p45

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わたし自身の天性の決定的な特徴はことごとくワーグナーの天性の中へ移入されている──最も明るい力と宿命的に最も暗い力との共存、人間がいままでにもったためしのないほどの権力意志、精神的な領域におけるがむしゃらな勇敢さ、無際限な習得の力(しかもそれによって行動への意志が圧しつぶされるようなことはないのだ)など。
手塚富雄訳『この人を見よ』「悲劇の誕生」

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