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ニーチェ「演技、役者、道化師」

1889年1月3日、ニーチェはトリノの広場で鞭で打たれる馬に出会いました。彼は駆け寄り、その首をかき抱いて涙を流しました。その後、彼の精神は崩壊し、最期の10年間を看取られながら穏やかに過ごしたと伝えられていますが、ニーチェが役者(道化師)として死ぬまで演技を続けたと想像する方が、ニーチェらしい最後と言えます。

──そこで私は、その犬がかわいそうになった。ちょうど満月が、死の沈黙の中で、家の上に懸かっていた。まん丸に白熱した月は、そのときじっと動かず──平らな屋根の上に静かに昇っていた。まるで、よその家の上に昇っているように。── 
それで、犬はそのとき、ギクリとした。犬というのは盗人や幽霊の存在を信じるから。ふたたび犬が吠えるのを聞いたとき、私はまたしてもその犬がかわいそうになった。

森一郎訳『ツァラトゥストラはこう言った』「幻影と謎」


超人とは、「力への意志」をも捨て去った無邪気な子供のような存在です。ニーチェは発狂(精神崩壊)することによって、自らを超人として完成させ、私たちに超人を体現して見せてくれたと考えるのも、ニーチェらしい最後と言えます。

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『荘子』に出てくる「神人」は、『ツァラトゥストラ』に出てくる「超人」と同じような存在です。キリスト教と無縁の日本人には、ニーチェの思想よりも荘子の思想の方が親しみやすいかもしれません。

藐姑射(はこや)の山(神話上の山)に、神人が住んでいる。肌は氷や雪のように白く、体のしなやかさは乙女のようだ。穀物は一切食べず、ただ風を吸い露を飲み、雲気に乗り、飛竜を操って、世界の外に遊び出ていく。彼の霊妙なエネルギーが凝結すると、あらゆる物は傷病なく成長して、五穀も豊かに実るのだ。

『荘子』「逍遥遊篇」

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ドラクエでも遊び人だけが賢者に飛び級できるように、道化師だけが超人になる近道を知っています。道化師は無邪気な子供のような存在です。そこには晴れやかな悪意もあります。常識的な人間や道徳的な人間は超人にはなれません。

そこで、最も遠い者たちへ向かう私の大いなる愛は、こう命ずる。君の隣人を労わるな、と。人間とは、克服されなければならないものなのだ。
克服するには、いろいろな道があり、いろいろな仕方がある。それを心がけるのは君だ。道化師だけが、「人間は飛び越すこともできる」と考える。

森一郎訳『ツァラトゥストラはこう言った』「新旧の石板」

その道化師は悪魔のような叫び声をあげて、おのが行く手をふさいでいる者を飛び越えたのである。

手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』「ツァラトゥストラの序説6」

「だがこの町からは去りたまえ─そうでなければ明日わしは君を飛び越えるだろう。わしは君を飛び越えて生き、君は落ちて死者となるだろう」そう言い終わると、その男(道化師)は姿を消した。

手塚富雄訳「ツァラトゥストラの序説8」

わたしはわたしの目標を目ざす。わたしはわたしの道を行く。ためらう者、怠る者をわたしは飛び越そう。こうしてわたしの行路はかれらの没落であるように。

手塚富雄訳「ツァラトゥストラの序説9」

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「超人」とは、道化師であり、太陽のように明るく天真爛漫な子供、また踊る神とも表現されています。『ワンピース』のニカは、超人をモチーフにしているのではないかと思ってしまうほど、重なる部分が多いです。その対極にある存在が「重力の魔」であり、暗くて重たい存在です。

そこでは、わたしはまたわたしの昔なじみの悪魔、そして宿敵であるあの重さの霊と、その霊がつくったいっさいのものをも、ふたたび見いだした。つまり強制、規定、必要とその結果、目的と意志、善と悪などを。──それというのも、舞踏をするためには、舞踏して飛び越えるものがなくてはならぬからではあるまいか。軽い者たち、最も軽い者たちがあるためには──もぐらや重い侏儒どもが存在しなくてはならぬからではあるまいか。

手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』「新旧の表2」

最も遠方にいる者たちへのわたしの大いなる愛は、こう命ずる。おまえの隣人をいたわるなと。人間は乗り超えられねばならぬあるものなのだ。こういう乗り超え、超克の道と方法はあまたある。それは、おまえが見つけなければならないのだ。だが、「人間は飛び越えられることもできる」と考えるのは、道化師だけである。おまえの隣人をも、おまえ自身と見なして、それを乗り超えよ。そして、おまえが自分の力で奪取できる権利は、それを他人の手から受けてはならぬ。

手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』「新旧の表4」

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