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ニーチェと子どもたち

ニーチェの著作を読んでいると、彼が子ども好きであることが伝わってきます。彼は子どもが好きなので、「子どもをつくることをやめよう」とは決して言いません。ニーチェにとって、子どもは未来であり希望です。また、子どもは超人の象徴でもあります。

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わたしは、子どもたちの遊ぶこの場所に喜んで身を横たえる、くずれた石垣のほとり、あざみと赤いけしの花の咲くところだ。わたしは、子どもたち、またあざみと赤いけしの花にとっては、今も学者だ。これらのものたちは、悪意においてさえ無邪気である。
「学者」

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「われわれは肉欲を避け、子どもをつくることをやめよう」「産むことは労苦である」そう言った者たちもいる。「それを知って何のために産むのか。ただ不幸な者を産むだけなのに」そういう言い方をする者たちも、死の説教者である。
「死の説教者」

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汝は若い。子供を欲しがり、結婚を望んでいる。然し、私は汝に問う。汝は子供を欲しがることが許される人間であるか?汝は勝利を収めた者であるか、自己征服者であるか、官能の支配者であるか、汝の美徳を束ねる君主であるか?このように私は汝に問う。

私は、汝の勝利と汝の自由が一人の子供を切望するのであれと念じる。汝の勝利と汝の解放のために、汝は生きている記念碑を構築しなければならぬ。

自らを超えて、汝にはその記念碑を構築して欲しい。だが、汝自身が先ず、申し分のない肉体と魂の骨組みを築き上げていなければならぬ。

生み殖やすだけではなく、精神の高みを模索して欲しい!そのために結婚の園が助けとならむことを祈る!
「子供と結婚」

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だが、どこにも故郷は見いだせなかった。わたしはどんな都市にも落ちつくことができない。わたしはあらゆる市門からの出発者である。現代の者たちは、わたしには他郷の者であり、笑いの種である。なるほど、ついさきごろわたしの心はかれらへ駆り立てられはしたが。そしてわたしは父の国、母の国からも追われた身だ。こうして、わたしが今も愛するのは、わたしの子どもたちの国だけである。大洋の果てにある、まだ発見されない国である。わたしはわたしの帆にその国をあくまでさがせと命令する。わたしがわたしの父祖の子として生まれたことを、わたしはわたしの子どもたちで、取り返そうと思う。未来で──この現在を取り返そうと思う──。
「教養の国」

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かつて創造する者は、道連れをもとめた。そしてみずからの最高の希望の子どもを。そして見よ、彼は知ったのだ。見つかりはしない、道連れも子どもも、自分で創り出さなければならないと。だからわたしは、自分の仕事に没頭している。わが子どもたちをもとめて、近づいたり遠ざかったりしながら。ツァラトゥストラは自分の子どもたちのために、おのれ自身を完成させなくてはならない。ひとが心の底から愛するのは、ただみずからの子どもと仕事だけだから。
「望まない至福について」

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子どもとは、無垢であり、忘却であり、新しい始まりであり、遊びであり、おのずと回る車輪であり、第一運動であり、聖なる然りを言うことである。そうだ、創造という遊戯のためには、兄弟たちよ、聖なる然りを言うことが必要なのだ。今や精神はおのれの意志を欲し、世界を失った者はおのれの世界を勝ち取る。
「三段階の変身」

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「子供に厳しく、自分に甘い」大人になってはいけません。自分を完成させる意志のない両親を持つ子供は、嘆きの涙を流すことになります。

ツァラトゥストラは、おのが子どもたちのために孤独のうちに自分を完成しなければならぬのだ。
「望まぬ至福」

どの子供が、両親のことで嘆きの涙を流さないで済むだろうか?
「子供と結婚」

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