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『ツァラトゥストラ』第四部の謎(資料)

『ツァラトゥストラ』の第四部については、違和感を感じた人も多いはずです。以下の裏の事情を知ることで、違和感の謎が解けるのではないかと思います。

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第四部はそれまでの三部とは事情が異なっている。一八八三年から翌年初旬にかけてそれぞれがかなりの短期間で集中して書きあげられた第三部までとは違って、第四部はその成立に一年ほどの期間を要している。この部分はもともとは三部作の続篇として構想されたものではあるが、同時にそれを新たな著作の第一部として独立させる案も検討されている。そのために一時期は、このテクストを「正午と永遠──第一部 ツァラトゥストラの試練」という標題で、別著作にする企画も考えられている(一八八五年ケーゼリツ宛書簡)。
村井則夫著『ニーチェ─ツァラトゥストラの謎』(中公新書)

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『ツァラトゥストラ』の完結篇として、第四部をたとえ少部数でも制作しようという意図をもちながら、同時にニーチェがこのテクストを本篇の中に含めることに最後まで躊躇していたのも事実である。実際に、一八八六年に自著の出版権をシュマイツナー書店からフリッチュ書店に移したのを機に、それまで分冊となっていた『ツァラトゥストラ』の合本を公刊した際には、第一部から第三部までを三部作としてまとめ、第四部をそこから除外している。また、『ツァラトゥストラ』第四部の私家版を制作したナウマン社に対しては、原稿のみならず、校正刷り、見本刷りなどの一切を返却するように依頼し(一八八五年)、その印刷の証拠までをも残らず抹消しようとしているかのようである。印刷された第四部を、妹をはじめ知人たちに贈る際にも、「この第四部が実際には書かれていないかのように、これを秘密にしてもらいたい」(同年エリーザベト宛書簡)などと念を押すばかりか、ニーチェが知的活動を送りえた最後の時期である一八八八年の暮れには、それまで配布した第四部の全部数の回収さえ懇請している(一八八八年ケーゼリツ宛書簡)。自伝的著作『この人を見よ』においても、『ツァラトゥストラ』の執筆を「三度の一〇日間の仕事」と呼び、「全体として一年もかかっていない」三部作とみなしているところからすると、第四部の存在そのものが宙に浮いているようでもある。
‪村井則夫著『ニーチェ─ツァラトゥストラの謎』(中公新書)‬

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ニーチェ自身も、「晩餐」や「驢馬祭り」といった、キリスト教に対する露骨な当てこすりを含むこの第四部を、「道化役者のむら気で詩作された「神への冒瀆」」(一八八五年ケーゼリツ宛書簡)と呼び、道化としての皮肉を自覚している。第四部の構想が抱かれた初期の段階でも、「道化の書」(一八八四年ケーゼリツ宛書簡)といった表現が用いられていたように、この第四部は、既存の三部を揶揄しながら跳び越えて、それを笑劇やパロディに転換していく役割を担っているのである。
‪村井則夫著『ニーチェ─ツァラトゥストラの謎』(中公新書)‬

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第四部はニーチェ発狂後に公刊されたもので、計画されたまま執筆されないで終った第五部及び第六部で始めて完結するはずのものであった。
高橋健二・秋山英夫訳『ツァラトゥストラはこう語った』「解説」

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この芝居がかった構成は、『ツァラトゥストラ』第四部にも顕著にみられる、ニーチェの遊戯的志向、高度の自己韜晦趣味の現われであり、またそういうイロニー抜きでは語れないほど真実は重いのだ、という意識もあったであろう。
『ニーチェ全集1』「解説」(白水社)p489

韜晦(とうかい)
自分の才能・地位などを隠し、くらますこと。また、姿を隠すこと。行くえをくらますこと。

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