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ニーチェ「歩いて身に着けた思想」

ニーチェは部屋に閉じこもって哲学をしていたのではなく、自然の中で哲学をしていました。彼は傍観者でも墓掘り人でもなく、歩く哲学者であり、踊る哲学者でした。

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みずからの思考の熱でわたしは灼かれる。息をつくのもあやうくなる。そのときには外気をもとめて、埃まみれの部屋から出なくてはならない。  
だが、学者たちはすずしい木陰にひややかに座っている。何においても傍観者であろうとする。そして太陽が照りつける階段を避けて座る。
佐々木中訳「学者について」

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──私はそう言葉を吞み込むことを学んだ。私は、彼らの墓掘り人を、綿密に調べる研究者と呼んだ。──私はそう言葉を取り替えることを学んだ。  
墓掘り人は、墓を掘っているうちに病気にかかる。古い瓦礫の下には、毒気がこもっている。泥沼を掘り起こすべきではない。山上で暮らすべきなのだ。
森一郎訳「帰郷」

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多くを、そして多種類を読むのは、わたしの流儀でないらしい。書斎などというものは、わたしを病気にしてしまう。多くを、そして多種類を愛するのも、わたしの流儀ではない。新刊書にたいする警戒心、いや敵意とさえいえるものが、「寛容」や「雅量」、その他の名をもつ「隣人愛」よりも、確かにわたしの本能に属している。
手塚富雄訳『この人を見よ』「なぜわたしはこんなにも利発なのか3」

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「座っていなければ、ひとは考えることも書くこともできない」 ( G・フロベール)。──これでおまえの素性を捕まえた、ニヒリストよ!座り込んでいるのは、聖霊に対する罪である。歩いて身に着けた思想だけが価値をもつ。
村井則夫訳『偶像のたそがれ』「箴言と矢34」

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できるだけ腰をおろしていることを少なくすること。戸外で自由に運動しながら生まれたのでないような思想──筋肉も祝祭に参加していないような思想は、信頼せぬこと。
『この人を見よ』「なぜわたしはこんなに利発なのか1」

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わたしの場合、創作力がもっとも豊かに湧き出るときに、筋肉の軽快さがいつも最高になった。肉体が霊感をうけるのだ。「魂」などは放っておこう──いくどか、わたしの踊っている姿も見られたはずだ。そのころわたしはまるで疲労知らずで、七、八時間、山の中を歩きまわったものだ。よく眠り、よく笑った──、わたしは、完全な頑健さと忍耐をそなえていた。
『この人を見よ』「ツァラトゥストラ4」

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わたしはさすらいびとであり、登高者である、とかれは自分の心にむかって言った。わたしは平地を愛さない。わたしはいつまでも静かにすわっていることができないらしい。
手塚富雄訳「さすらいびと」

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わたしは愛する、自由と、みずみずしい大地の上にある大気を。学者の名誉と威厳の上より、牛の皮の上に寝たほうがいい。
佐々木中訳「学者について」

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「それ以上しゃべらないでください。あなたは快復しつつあるのですから」と、動物たちは応じて言った。「むしろ、外に出ることです。外では、世界があなたを待っていますよ、庭園のように。  
外に出て、バラとミツバチとハトの群れのところへ行ってごらんなさい。とりわけ、歌う鳥たちのもとへ。鳥たちから、歌うことを学びとるために。  
歌うことは、快復しつつある人にもってこいだからです。健康な人だったら、語ればいい。たとえ健康な人が歌を欲しがるとしても、その歌は、快復しつつある人が欲しがるのとは別の歌です」。
森一郎訳「恢復しつつある人」

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