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ニーチェ「笑いの哲学、踊りの宗教」

ニーチェの哲学は「笑いの哲学」です。ニーチェの宗教は「踊りの宗教」です。ニーチェの哲学では、超人、永遠回帰、力への意志などの難しい用語がクローズアップされがちですが、ニーチェは生きること、大地を愛すること、踊ること、笑うこと、歌うことを何よりも伝えたかったのです。

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かれ(イエス)はなおも荒野にとどまっていて、あの正義の者たちから離れていればよかったのだ。そうすれば、おそらく生きることを学び、大地を愛することを学び、さらには笑うことを学んだであろう。
手塚富雄訳「自由な死」

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──さて、牧人は、私が大声でそうしろと言ったとおりに、嚙んだ。良心の曇りもなく、思い切り嚙んだ! 彼はヘビの頭を遠くへ吐き出し──、そして飛び起きた。── 

もはや牧人でも、人間でもなかった。──一個の変身した者、光に包まれた者となって、笑った。かつて地上で、彼ほど高笑いした人間はいなかった。おお、わが兄弟たちよ。私は、いかなる人間の笑いでもない笑いを聞いた。───

──今や、一つの渇望が、決して鎮まることのない一つのあこがれが、私の心を蝕む。  

この笑いを求める私のあこがれが、私の心を蝕む。おお、どうして私は生きることに耐えられるだろうか。だからといって、今死ぬことにどうして耐えられようか。──
森一郎訳「幻影と謎」

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わたしが神を信ずるなら、踊ることを知っている神だけを信ずるだろう。  
わたしがわたしの悪魔を見たとき、その悪魔は、まじめで、深遠で、おごそかだった。それは重さの霊であった。──この霊に支配されて、いっさいの事物は落ちる。  
これを殺すのは、怒りによってではなく、笑いによってだ。さあ、この重さの霊を殺そうではないか。
手塚富雄訳「読むことと書くこと」

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いまわたしは軽い。いまわたしは飛ぶ。いまわたしはわたし自身をわたしの下に見る。いまわたしを通じて一人の神が舞い踊っている。
手塚富雄訳「読むことと書くこと」

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わたしは男と女に望む。男は戦いに長け、女は産むことに長けていることを。そして男女ともに舞踏に長けていることを。踊るのだ、頭でも脚でも。
手塚富雄訳「新旧の表」

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いつの日か、人間に飛ぶことを教える者が現われたら、その人はあらゆる境界石の位置をずらしたことになる。あらゆる境界石それ自体が、彼にかかると宙を舞い、彼は大地に新しい洗礼名を施すだろう──「軽やかなもの」と。
森一郎訳「重さの地霊」

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まことに、わたしも待つことを学びおぼえた。しかも徹底的に学びおぼえた。しかし、わたしが学びおぼえたのは、ただわたし自身を待つことである。しかも、何にもまさってわたしの学びおぼえたことは、立つこと、歩くこと、走ること、よじのぼること、踊ることである。

すなわち、わたしの教えはこうだ。飛ぶことを学んで、それをいつか実現したいと思う者は、まず、立つこと、歩くこと、走ること、よじのぼること、踊ることを学ばなければならない。──最初から飛ぶばかりでは、空高く飛ぶ力は獲得されない。
手塚富雄訳「重さの霊」

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一度も踊りを踊らない日があったら、失われた日に数えよう。また、高笑いがこみ上げてこない真理はすべて、虚偽と呼ぶことにしよう。
森一郎訳「新旧の石板」

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──「おお、ツァラトゥストラよ」と動物たちがそれに続けて言った。「私たちのように考える者にとっては、万物それ自身が踊るのです。
森一郎訳「快復しつつある人」

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私の徳が、踊り上手の徳であり、私がしきりに両足を上げて踊り、黄金とエメラルドをちりばめた恍惚へ飛び込むとしたら、  
私の悪意が、バラの斜面やユリの生け垣に隠れてひそやかに笑う悪意だとしたら、  

──なぜなら、笑いにはあらゆる悪意が仲良く並んでいて、どんな悪意もみずからの幸福によって罪を赦され、聖人の列に加えられているからだ、── 

そして、どんな重さも軽やかになり、どんな肉体も踊り上手になり、どんな精神も鳥のように自由になることが、私のアルファにしてオメガなのだとしたら、そう、これぞ私のアルファにしてオメガだとしたら、──
森一郎訳「七つの封印」

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いっさいの重いものが軽くなり、いっさいの肉体が舞踏者に、いっさいの精神が鳥になることが、わたしのアルファでありオメガであるなら(そしてまことに、それこそわたしのアルファであり、オメガなのだ)──
手塚富雄訳「七つの封印」

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おお、わが魂よ、私は今やおまえに一切を与えた。私の最後のものまで与えた。そして、私の両手はおまえのために空っぽになった。──私がおまえに歌えと命じたこと、ほら、それこそが私の最後のものだったのだ。  

私はおまえに歌えと命じたのだった。言いなさい、さあ、言いなさい。おまえと私のどちらが──感謝すべきなのか。──しかし、もっといいのは歌ってみせることだ、歌うがいい、おお、わが魂よ。そして、私に感謝させておくれ!──
森一郎訳「大いなるあこがれ」

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