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ニーチェと呪術廻戦 魂と肉体・理性と本能

偽夏油とツァラトゥストラは似たようなことを言っていますし、目的も似ています。偽夏油の目的は、人類を強制的に高次な存在へ進化させることであり、人間の新たな可能性を追求することでしたが、ツァラトゥストラの目的は、人間を超人にすることでした。

偽夏油
「君は魂は肉体の先に在ると述べたが、やはり肉体は魂であり、魂は肉体なんだよ。でなければこの現象にも、入れ替え後の私の脳に肉体の記憶が流れてくるのにも説明がつかない。」

ツァラトゥストラ
「わたしは肉体であり魂である」──そう幼子は言う。なぜ、人々も幼子と同様にそう言っていけないだろう。さらに、目ざめた者、洞察した者は言う。自分は全的に肉体であって、他の何ものでもない。そして魂とは、肉体に属するあるものを言い表わすことばにすぎないのだ、と。肉体は一つの大きい理性である。
手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』「肉体の軽蔑者」

わたしの場合、創作力がもっとも豊かに湧き出るときに、筋肉の軽快さがいつも最高になった。肉体が霊感をうけるのだ。「魂」などは放っておこう──いくどか、わたしの踊っている姿も見られたはずだ。
手塚富雄訳『この人を見よ』「ツァラトゥストラ4」

わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは乗り超えられるべきあるものである。あなたがたは、人間を乗り超えるために、何をしたか。  
およそ生あるものはこれまで、おのれを乗り超えて、より高い何ものかを創ってきた。ところがあなたがたは、この大きい潮の引き潮になろうとするのか。人間を乗り超えるより、むしろ獣類に帰ろうとするのか。
手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』「ツァラトゥストラの序説」

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偽夏油は理性的に考えるタイプで、真人は本能で感じるタイプです。思考回路が異なるため、会話が噛み合っていません。真人は偽夏油の言葉をじっくり考えず、直感で即答していますし、偽夏油も「術式は世界か」と、一人で納得しています。タイプの違いだけでなく、肉体を持つ偽夏油と肉体を持たない真人では存在に備わった仕組みが違うのは当然です。二人は異なるルールの世界に住んでいます。

私たちの日常会話もこの会話と同じように、噛み合っていないことが多く、お互いが異なる世界に住んでいます。それでも、相手から刺激を受けたり、一緒にいることが楽しいのなら、それで十分です。

「肉体は魂であり、魂は肉体なんだよ」という偽夏油の理論的思考も、「それって一貫してないといけないこと?」という真人の自由な思考もどちらも好きです。どちらかが正しいのではなく、どちらも正しいのです。

偽夏油
「君は魂は肉体の先に在ると述べたが、やはり肉体は魂であり、魂は肉体なんだよ。でなければこの現象にも、入れ替え後の私の脳に肉体の記憶が流れてくるのにも説明がつかない。」

真人
「それって一貫してないといけないこと?俺と夏油の術式では世界が違うんじゃない?」

偽夏油
「術式は世界か、」

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わたしの兄弟たちよ、むしろ健康な肉体の声を聞け。これは、より誠実な、より純潔な声だ。健康な肉体、完全な、ゆがまぬ肉体は、より誠実に、より純潔に語る。そしてそれは大地の意義について語るのだ。
手塚富雄訳「背面世界論者」

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力強い魂には、高貴な身体がふさわしい。美しい、意気揚々として、人の目をもよろこばす身体、そのまわりの一切のものが、それを映す鏡に化するような身体、しなやかな、ひとに有無をいわさぬ身体、みごとな舞踏者の身体。自己自身に快楽をおぼえる魂とは、この身体、この舞踏者の象徴であり、精髄にほかならない。こうした身体と魂との自己快楽が、みずからを「徳」と呼ぶのである。
氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った』「三つの悪」

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そしてその力強い魂とは、高貴な肉体、美しい、勝ち誇った、生気のあふれる肉体を兼ね備えた魂なのだ。周囲のすべての事物におのが美しさを反映させる美しい肉体、  
──しなやかな、説きふせる肉体、舞踏者のような肉体(みずからを楽しみ悦んでいる魂は、こういう肉体の象徴であり、エキスである)を兼ね備えている魂なのだ。こういう肉体と魂がみずから味わう歓喜、それがわたしの讃える我欲であり、そしてそれはおのれ自身を「徳」と呼ぶのだ。
手塚富雄訳『ツァラトゥストラ』「三つの悪」

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──力強い魂は、高貴な肉体のものだ。美しく、勝利の自信にみちて、快い身体、まわりのすべてのものが、それを映す鏡となる。  
──靭やかで、有無を言わさぬ身体、舞踏者の身体、それはみずからを歓んでいる魂の比喩であり、精髄だ。この肉体と魂がみずから歓ぶもの、それを「徳」と呼ぶ。
佐々木中訳『ツァラトゥストラかく語りき』「三つの悪」

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──その源である力強い魂には、高貴な肉体がそなわっている。美しく、意気揚々とした、元気いっぱいの肉体が。その肉体の周りでは、ありとあらゆるものが鏡となって肉体を映し出す。  
──しなやかで説得力に富むこの肉体は、舞踏者であり、自分自身を楽しみ喜んでいる魂は、この舞踏者の比喩であり精髄なのである。そのような肉体と魂の自己快楽、つまり我欲は、自分で自分のことを「徳」と呼ぶ。
森一郎訳『ツァラトゥストラはこう言った』「三つの悪」

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