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中込遊里の日記ナントカ第102回「孤独を許される演劇/能舞台と出会った“リヤ王”終演」

2020年2月9日・宮越記念久良岐能舞台、11日銕仙会能楽研修所で上演した、鮭スペアレ本公演「物狂い音楽劇・リヤ王」の、演出の振り返り文です。

表現したいから演劇をするわけではない

能楽師の方はどうしてあのような寂しそうな声を出すのだろう。

私が津村先生に謡を習う時、決して「寂しそうに」などとは教わらない。現代劇と同じで、役の感情を声に出すわけなので、意外なことを聞いた時は「驚いて」、悔しい時は「相手を責めるように」などと、まあ当たり前のことをアドバイスされる。

謡のポイントは、とにかく腹をしっかり据えて倍音たっぷりの声を出すことである。

だから、下手な私は酸欠になりそうになりながらがんばって声を出すのだが、先生のお手本を真似しようと思うと、精一杯力を込めながらもどこか物哀しい音を出そうと心がける。

能は地謡と「シテ」と呼ばれる主役の台詞が多いので、この世に想い残して舞台に現れるシテが、物哀しそうに声を出すのは当然かもしれない。

一方、鮭スペアレで私が“ウタイ”をする時はいつも、「ゆるされたい」という想いを抱えている。

仏教によると、「生きることは苦しいこと」という発見から教えが始まる。生きることが苦しいのは、ありとあらゆる欲望にまみれた人間の性ゆえという。

実生活で積み重なるもの(それは楽しく感じる物事も含まれる)を抱えた私の肉体は、舞台上で晒される時、空っぽになるチャンスをもらう。空っぽというより、積み重なるものを認めてゆるす、という方が近いのかもしれない。ただ、肉体感覚は空っぽに近くはある。

何かを表現したいから演劇をやっているわけではないな、といつも思う。生活を、生きることを、ゆるされたいからやっている。

煩悩から解き放たれるためにあらゆる修行をするのが仏道なのだと思うが、修行という形ではなく演劇という形で私なりに“解脱”を試みているのかもしれない。日常では欲望まみれだからこそ。

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死者を弔う演劇

演劇をすると決めてから私の根本は何も変わっていないのだけど、今回初めて能舞台で上演したことにより、いっそうはっきりとした。

さきほど仏教の話を出したが、能は仏教と切っても切れない。

広く知られている能は「夢幻能」と呼ばれて、だいたいのストーリーはこうだ。

どこぞの僧が旅中に宿を求めると怪しげな里の女に出会う。夜になるとその里の女が「実は私は亡霊です~、ああ、あの人が恋しい~!」と苦悶する。僧が話を聞いてあげて成仏させる。

大雑把も大雑把にまとめるとこんな感じ。

生と死にまつわるストーリーであり、仏教用語も多様される。特に、私が教わっている津村先生は得度もされているので仏教についても時々丁寧に教えてくださる。

そのような上演をされ続けている能舞台には確実にタマシイが居着いている。さらに、能楽が始まると、鏡板の松に神が下りてくるという。橋掛かりは、本舞台という「この世」と「あの世」を繋ぐものだともいう。

そういう場所で上演したことによって、私のかつてからの演劇論は肉体を持ち始めた。演劇とは死者を弔うものである。

舞台上で語られる言葉はすべて過去の言葉だ。人間が未来のことがわからないことと同様、役者は未来を再現することはできない。演劇は過ぎたことしか語られない。


「リヤ王」と能舞台の相性はよかった

さて、「リヤ王」の話に入る。数百年のズレはあるが、古典同士であるシェイクスピアと能楽の相性は良いのだが、特に「リヤ王」は相性がよかったと思う。悲劇であり、位の重い老人が主役であるので、神聖な雰囲気が出る。

とはいえ、私が能舞台を選んだのは、悲劇をやりたいからでもシェイクスピアが好きだからでもなく、能舞台の持つ奇妙な論理性に惹かれたからだと、演じてみて改めて思った。

橋掛かりや松、観客の目には明らかに邪魔な柱。そのような機構が、なんと合理的にできているか、これほどとは、と思った。今回は初めてなのでセオリー通りに、ミュージシャンの位置もウタイの位置も能楽通り、舞台の使い方も許せる限りの基本を踏襲した。踏襲しようという力が、リヤ王という戯曲により働いていた。音響効果も見所(客席)からの眺めも具合よくなるのには驚いた。

これほど制約があるのに自由になれるのが能舞台。少なくとも私の魂には合致している。

また、「奇妙な論理性」は謡にも感じていて、ドレミファソラシドの楽譜にはない相対音階は、小学校の授業からドレミを習っている身としては戸惑う。しかし慣れてみればとてもシンプルできっちり論理立てられている。謡本の指示はまるで暗号でそれが興味深い。ちなみにリヤ王のウタイではすべて耳コピー。

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シェイクスピアは人間の孤独を描いている

「リヤ王」だけではなく、特にシェイクスピアの悲劇に通じるのは人間の持つ孤独である。

シェイクスピアで悲劇と分類されるもの(それだけではないが)では、必ず主役が死ぬ。主役だけではなくとにかくバッタバッタと人が死ぬ。その死にざまの描かれ方がシェイクスピアの手腕で、実に見事に人間の持つ欲・業・惨めさ・滑稽さが描かれており、そこに横たわるのは逃れられない「孤独」である。

また仏教の話になるが、「独生・独死・独去・独来」というお釈迦様の言葉は、そもそも人生は寂しく孤独なものであるという意味。シェイクスピアはキリスト教だけれども人間の根本は変わらない。

親や恋人や仲間といった「肉体の連れ」はあるが、「心の連れ」がない。人は真には分かり合えない。

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孤独を許される演劇

能にも「ワキツレ」という役があるのだが、この「連れ」という言葉はなんとも官能的でいい。まず音の響きが軽やかでいい。「仲間」とか「友達」とかいう重たさがない。

人は真には分かり合えない。だからこそ分かり合いたいと思い、隣にいる人を愛おしく思う。

2014年に「ゴドーを待ちながら」を下敷きにした作品を創ったのだが、「昨日の私と今日の私の埋められない孤独」という言葉がテーマの一つで、歌詞ともした。自分と他者が分かり合えないどころか、私にとっては昨日の私と今日の私も分かり合えない。いつも新しく孤独。

孤独であることから逃れようとすると苦しくなる。だからシェイクスピアの登場人物たちは苦しんでいる。

私は、劇団員という「肉体の連れ」と一緒に、演劇という「他者の人生の疑似体験の場」を借りて、孤独を見つめよう。人生は孤独であり、突き詰めればそこには何もない。その寂しさが真理。私たちはなににもならない。ただ孤独を見つめる。

一年後目指すこと

2021年2月に新作を上演する。「リチャード三世」の予定。

徹底的に戯曲を掘り起こすこと。シテのグロースター公・リチャード王の孤独を肉体化すること。形式を利用して、現代の私たちの感覚で。戯曲がすべてを持っている。それを発見するのみ。余計なものは付け加えない。

そのためには、魔法はなくて、時間をかけて訓練を積むこと以外にない。能楽だけではなく、舞踏の訓練が必要と思っている。これまでも舞踏の訓練を取り入れてはきたが、より一層強化したい。

また、俳優にもっと強靱な自信をつけてもらうこと。そのためには、言葉の力を信じること。

「リチャード三世」を少しずつ読み進めているのだが、言葉の力がいかに人生に影響を与えるか、シェイクスピアが言葉をいかに信じているか、凄まじい。これを謡にして上演するかと思うと、怖ろしいとともにとてもワクワクする。

「言葉としての音楽/音楽としての言葉」を具体的に一歩深められたのが「物狂い音楽劇・リヤ王」だったと思う。それをさらに三歩くらいは深めたい。言葉が勝負。

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