また会うまでの欠片(カケラ)

 
 
 
何にせよ、致死率は100パーセント

それはキミマロさんの言う通り
 
 
その時に、その後に、全く不安がない、と言えば嘘になる
 
 
わからないから怖がりようもない反面
 
試すことも出来ないから怖い面もある
 
 
大○界じゃあるまいし(笑)
 
 
つまり、結局、わからないのだ


現実関係であれネットット関係であれ

お世話になった、関わってくれた人たちとの記憶は無限


私は、皆の、私に関する記憶に対しての執着はそれほどない
 
 
もちろん、もう少し若い頃だったらまた違っただろうし
 
 
今も、もし私に子どもや孫でもいれば
 
もしかしたら、また少し違ったのかも知れないけど
 
 
何でこんな話になったか、と言えば
 
『自分がいなくなった後、忘れ去られるのが怖い』
 
……そう言ってる人の話があって
 
 
自分はどうだろう?と考えたのがキッカケなんだけど
 
 
明確な結論は出ないのだけど
 
今の段階で漠然と思うのは

 
私は、皆が私を思い出してくれた時
 
それが笑い話でないのなら
 
 
むしろ、現世ではそんな記憶は捨てて忘れ去って欲しいと思う
 
 
でも、もし、笑い話や楽しい話であるなら大笑いして欲しいと思う
 
 
何か私にとって都合がいい話では?と思われるかも知れないけど

それは私の悪いところを忘れて欲しい、と言うことではなくて


もし、哀しんでくれるのであれば
 
それはとても嬉しいことではある
 
 
でも、辛い記憶とか哀しい記憶は忘れがたいが故に

時にとても強烈だから


例え大事な人たちに忘れ去られたとしても

その人たちに楽しく生きていて欲しいと、私は思う


だって、その時、私は既にそこにいないのだから忘れられてナンボ
 
それはそれで勝手な話だ、と言われるだろうことは百も承知で、そう思う


その代わり、私が忘れない


あの世かその世かどの世かわからないけど

赴く時には皆との記憶の欠片を全て持って行く


昔、越後のばーさんが上京する時に担いで来たような風呂敷に

大切な記憶の欠片を全て包んで担いで行く


自分、欲張りですから


ま、忘れたい欠片のいくつかは

どこぞの川で知らないうちにポロポロ落とす(と見せかけて捨てる)かも知れないけど


人の一生をあの世での時間に換算すると
 
ほんの瞬きひとつの間だという
 
 
まあ、これ、仏教的な考えであって
 
ナンチャッテ仏教徒の私が言っても説得力のカケラもないんだけど


私はスローモーションのさらにスローモーバージョンで瞬きしながら

持って行った欠片をひとつひとつ眺めながら思いを馳せる

 
それぞれ、その欠片に纏わる人のことを


瞬きしなさ過ぎてドライアイにならないといいけどねぇ(笑)


そのうちに、それぞれ天寿を全うした大切な人たちにひとり、ふたりと再会し

お互いの欠片を填め込みながら思い出話に花を咲かせるのだ


全ての人が揃った時にその壮大なパズルは完成し


現世でしゃべったように

大笑いしたように


皆、揃ってあの世でも大騒ぎするのだ……たぶん
 
 
だって、悪い記憶はどこその川で捨……ムニャムニャ……だし


そんな風に考えていられたらいい

私はそんな風でいたい
 
 
 
 
 

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