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かりやど〔弐〕

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 
 

 


「……ヤドカリっているでしょう?あれに似ているけど、少し違う。確かに借り物、でもあるけれど、ぼくは仮宿……宿を借りる、のではなくて、どちらかと言うと、ぼく自身が仮の宿、なんですよ。彼女にとって……そして彼にとっても……ね……」
 


 

 ──数日後。
 翠(すい)の元に、坂口からの連絡が入ったのは午後のこと。約束通り、手筈が整ったとの知らせであった。
 
「……ふーん。あの男、相当、頑張ったんだね。よほど私が欲しいみたい」
 楽しげに呟く翠とは反対に、朗(ろう)の目は翳りを帯びる。僅かに顔を俯かせると、視線も下方へと落とした。
「何?まだ気にしてるの、朗?」
 ソファで黙り込む朗に気づき、翠は半ば呆れたように言う。浮かない顔の朗に近づくと、その膝の上に、まるで猫のようにしなやかに滑り込んだ。
 いつものように、両腕をするりと首に回すと、下側から朗の目を覗き込む。
「……しない、って言ってるのに、何をそんなに気にしてる?」
 朗は黙ったままだった。それどころか、翠と目を合わせようともしない。
 顔を覗き込んでいた翠は、朗が反応を示さないことに機嫌を損ねたのか、眉をしかめて立ち上がろうとした。その腕を朗が掴む。
「……翠……もう、やめましょう……」
 動きを止めて見遣る翠の目を、顔を上げた朗が真剣な面持ちで見つめた。
「……やめる、って……何を?」
 立ち上がるのをやめた翠が、朗の膝の間に自分の片膝をつきながら訊ねる。さも、不思議そうに。
「……全てです。こんなこと全部、もう何もかもやめて、どこか遠くへ行きましょう」
「……何言って……」
 思い詰めた朗の言葉の調子に、翠の方が驚いているようだった。
「……これ以上、きみをこんなことに関わらせたくない……!こんなことをさせたくないし、して欲しくない……!……続けて欲しくないんです……!」
 吐き出すように訴えた朗に、翠は何の感情もこもらない目を向けた。
「やめない」
 無慈悲なほどに、たったひと言で却下された朗の訴え。絶望感すら漂わせる彼の目を、翠は浮遊感が佇む独独の眼差しで見つめ返した。
 見つめているのに、何も映していないかのような瞳。その表情には、例えるなら『小悪魔のような』と形容される悪戯っぽさ、それさえも含まれてはおらず、ただひたすらに何もこもっていない。
「……朗がやめたければ、別にやめていいんだよ?誰もとめたりしない。どこへ行こうと好きにすればいい」
「……翠……!」
 翠の腕を掴む朗の手に力がこもった。
「頼むから、もう……」
 懇願する朗の顔を見下ろしながら、翠はふわりとした笑みを浮かべる。虚無──と形容する以外にない目、その表情。
「やめない」
 その言葉に、朗が感情を迸らせた。翠の両腕を掴み、身体ごと自分の方へと向かせる。
「……翠!皆、こんなことを望んでいるはずがありません……そう……彼だって……」
 次の瞬間、パシッ!と乾いた音が響いた。掴まれた腕を引き剥がした翠が、朗の頬を打つ音が。
「……うるさいなぁ。だからぁ、嫌ならひとりでどっか行っていいよ。別に頼んでないし……」
 眉根を寄せた朗が、力ずくで翠の身体をソファに引き倒した。自分の身体で翠を押さえ込みながら声を絞り出す。
「……何故、わかってくれない……!」
 恐らく、薄いシャツの下には何も身に付けていないであろう翠の身体から、ほぼ直接的に伝わる体温とやわらかさ、にすら、今の朗は気づいていなかった。
 翠は翠で、自分の上に覆い被さっている朗のことなど、少しも気に留めていないかのような無の瞳で天井を見つめている。
「……翠……」
「……朗の方こそ、何でわかってくれないかなぁ?」
 僅かに顔を上げた朗が、瞬きも忘れて翠の顔を見つめた。その表情は何も答えてはくれず、朗の答えだけを促す。
「わかってくれてたんじゃないの?」
 息を飲み、何も答えられずにいる朗に、再びふわりと笑いかけた翠は、彼のシャツに滑り込ませた指と唇を胸元に這わせた。
「……翠……!」
 朗が翠を押し留めようとする。──と。
「……なぁに?」
 無邪気な返事と共に、翠の指が朗の背中へと回された。
 唇を胸元に這わせながら、指は背中と腰をなぞって行く。しなやかな指が、腰の付け根を這うのを感じ、朗が身体を小さく震わせると、その反応に翠の唇が妖しく微笑んだ。
「ほら、これが望みなんでしょ?堪えようとしなくていいのに」
「……翠、違う……!……そうじゃな……」
 朗の言葉は翠の唇に飲み込まれた。やわらかい唇が押し付けられ、深く入り込んで来る。
 それを、拒むことも振り払うことも出来ず、朗はそのまま陥落させられた。
 
 ふたりが身体を重ねたままソファに横たわる空間に、昔風の電話のベルが不粋に侵入する。
 先に反応し、上体を起こしたのは朗であった。自分の身体の上に、折り重なるように凭れている翠を抱き起こしながら促す。
「……翠……電話です」
 翠は面倒くさそうに目を開けた。気だるげに身体を起こすと、そのまま何も纏わず、サイドボードに置いてある携帯電話へと歩いて行く。
「……はい」
 不機嫌さ丸出しで答える翠の声を聞きながら、 朗は手早く服を身に着けた。打ち捨てられたようになっていた翠のシャツを床から拾い上げ、静かに近づくと後ろから肩に羽織らせる。
「……ああ、それはそのままにしておいていいです。動かす予定はありません」
 翠の返事に耳を傾けながら、朗が自分の携帯電話を確認すると、メールの着信が一件。送り主は、かつて在職していたバイト先の同僚女性であった。
 朗が眉をしかめる。
『しばらくお会いしてませんがお元気でしょうか?久しぶりに皆でお会い出来たら嬉しいです』
 朗は溜め息をつきながらも、手短に返信した。
『お久しぶりです。今の仕事が忙しく、時間を取れそうにありません。せっかくのお誘いですが、遠慮させて戴きます』
 送信されたのを確認し、受信メールも送信メールも、そして履歴すらも削除する。ちょうど画面を閉じたところで、翠が会話を締める言葉が耳に入った。
「何かありましたか?」
 訊ねる朗に、
「……別に。佐久田さんがお金の移動をどうするか、って」
 翠は平淡な口調。
「ああ、月末が近いですからね」
「資金移動も考えるの面倒くさいなぁ。まあ、大まかなところは、佐久田さんがうまく回してくれるから楽と言えば楽だけど……」
 そこまで言い、翠は朗に視線を向けた。
「朗は?何の連絡だったの?」
 通話をしながらも、朗の動きに気づいていたらしい。ヒヤリと背中に汗が滲むのを感じながらも、朗は首を振った。
「いらない勧誘だったので、さっさと不要報告して削除しました」
「……ふーん」
 何か感じるところはあったのかも知れないが、だからと言って、それ以上に追及しては来ない。それ自体はありがたいと思うものの、先程のことなどまるでなかったかのような態度に、朗は拭いきれない複雑な気持ちを圧し殺した。
 他人に対して、然程の興味を持つ様子を見せない翠であるから、まあ、いつものことではあるのだが。
(……翠が本当の意味で興味を示す相手は、やはり『彼』しかいない、と言うことか……)
 安心と同時に虚しさ、そして一抹の──。
 
「……翠。食事はどうしますか?」
 朗はさりげなく話の筋を逸らした。
「お腹空いた。お肉食べたい。分厚くて肉汁が滴るようなの。あ、でもピザもいいな」
 朗の胸の内など、少しも知らないであろう翠が無邪気に言う。
「……では食事に行きますか」
「うん。着替えて来る」
 そう言って自室へと歩いて行く翠を、朗は何とも言えない、複雑な表情で見送った。
 
 坂口との約束の日は一週間後である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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