『アドリブ』を「デタラメ」と勘違いしてはならない。

おはようございます。


「アドリブ」と言う言葉が随分と誤解されて久しいと思っています。
よく舞台などでアドリブが上手い人って台本に無い台詞を思いついて言っていると思われています。時にはデタラメを言っても「アドリブ」でと思われがちです。


僕は以前随分と舞台で仕事をしまして、その中で「アドリブ」を求められることも多かったです。
24歳の夏、僕は出演作品が被り(舞台が5本で全て地方公演、映画が2本、テレビドラマが3本)また離婚調停のために家庭裁判所に通っていてそこから現場に行く状態で自分でも最高にキツいスケジュールの時でした。
その中で宮崎での舞台はさすがに無理かと思ったのですが、プロデューサーと演出家から説得されて「稽古、リハーサル無し」で前日に現場入りして場当たりだけですぐに本番。
現場に行きながら台本を見ると僕のセリふが3ページの長台詞。しかもそれがオープニングです(笑)

もう笑ってしまいました。

他のキャストとは本番で「初めまして」なので、どのように来るのか知りません。
与えられた「演出」は一言「よろしく」
僕は自分が演じる人物の造形からすべてを創ることを期待されてのキャスティングです。


「アドリブ」というものはデタラメの延長戦には存在しません。考察と創造の中から生み出していくものです。作品世界を壊すことがあってはいけません。むしろその世界観を増強しなくてはなりません。そうでなければやる意味がありませんし、むしろ邪魔です。


僕は脚本も書くので全体のバランスや流れ、テンポを壊す「アドリブっぽいもの」を言う人は苦手です。脚本家の「気づいていないだけで本当に求めているもの」を理解・共有して初めて生まれるものです。


もちろん、その舞台は3公演すべて「アドリブ」で増強して成功を収めました。打ち上げで食べた地鶏がとても美味しかったです。


なんとなく「アドリブ」というと瞬間的に「面白いことを言う」みたいに勘違いされていますが、やはり徹底的な創作行為でしかありません。
その舞台は特別でしたが、稽古を通して「役」を完全に造り込んでいく過程で生まれるものです。
「その人物ならばこうする」という提案をキチンと出来るのかどうか、それが無くては言うべきではありません。脚本家や演出家はそこまで考えて空間・時間を設計します(ですよね?)そこにデタラメが入ると異物として浸食して世界が崩壊しかねません。


逆に「世界観の理解と共有」が出来ていたらトラブルから救うこともできます。
福岡であった舞台に出演したときの話です。その舞台は古い病院の相続問題をモチーフにしていたのですが、本番中にその病院の壁のセットが倒れました。スタッフ・キャスト大慌てのハプニングです。
僕は「その病院をだまし取ろうとする詐欺師」の役でした。この事態に「詐欺師」ならばどうするか?
僕はその場にあったメジャーを片手に舞台に出て倒れた壁の寸法を測り「リフォームを提案する詐欺師」として一芝居(笑)そのまま「リフォームついでにこの病院を取り壊してリゾート地にすることを(リゾート地に関しては元々の脚本にあったこと)プレゼンしました。
観客は壁が倒れたミスも「演出の一部」だと思って結果良くなりました。
これも僕が物語の「世界観の理解と共有」が出来ていたからです。

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演出家として、寫眞作家として多くの女性と向き合い『ゆーりママ』と呼ばれる篠原有利の経験と思考とその他いろいろを、もっとも赤裸々に書いていきます。 ビジネスもプライベートも、深くセンシュアル(官能的)なライフスタイルも、全てを分け隔てることなくフラットに、大切に見つめることで大事な「生き方」が見えてくる。 他のところに書いたものの【完全版】を含みます。

「私だけでしょうか?」 演出家ときには写真作家をしています僕の元にはそうした多くの相談が寄せられます。 人は誰もが特別。誰もがそれぞれ…

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