「漂わせ系女子」が微増している

あなたの周りにもいませんか?

加工アプリ全盛期。セルフィはもちろん最近買った服から、今日のランチ、街の広告までみんなありとあらゆる日常をSNSにアップする時代になりました。Instagramはもちろん、FacebookのアルバムやTwitopic、集積した写真は、それぞれのユーザーの性格や価値観、ライフスタイルを表現します。

そんな最近、よく見るなぁと思うのが「漂わせる写真」。それは単純なツーショットではなく「誰か(多分80%異性)と一緒にいるのを漂わせている写真」を指します。名言はしないけど、見ている者に「幸せな時間」を思わせる、そんな写真。ちょっと例を挙げてみます。

Case 1:対岸の彼


食べ物を撮っているつもりが、向こう側に座ってる人がちらっと写るパターン。手とか服装で男であることがわかります。この時にうっかり写ってしまった人のことを「対岸の彼」と私は呼んでいる。ゆるふわちゃんがよくやるテク。

Case 2:2つの杯ショット

スタバのラテのツーショットが定番ですが。「これ飲んだー」っていう報告でさらりと並ぶ2つの杯。独りでいるわけありませんよね。「一体誰といるんだろ?」と見る者に思わせる、そんな写真。

Case 3:シューショット

この夏、本当によく見たやつ。説明は不要。フェスやら海やら空港やら。男女の足が写っている写真がSNSに踊ったなぁ。

漂わせる力

「漂わせ系」の写真は、相手が特定されるような書き込みがありません。この控えめな感じが人の興味を絶妙に引くのです。充実感は漂っており、一定のうっとおしさは帯びるものの(僻みです)、明言されてない分いろいろと妄想してしまうのだ。恋人関係にあるのか、うっかり写ってしまっただけなのか、片思い中なのか、他人には言えない関係なのか。

「顔なし」の写真

かつてヴァルター・ベンヤミンは、写真や映画などが登場した1930年代に「複製技術時代の芸術作品」という著作において「これからはテクノロジーの発達によって芸術作品の一回性に宿る礼拝的価値(アウラ)は凋落していくだろう」と言いました。ざっくり言うと、それまで舞台などで一度しか鑑賞できなかった芸術作品が何度も繰り返し上映されることによって、そのありがたみのような力が失われていくのではないか、という話です。

同じ本の中で彼はこうも言います。「いま・ここ性」や「絶対性」によって支えられていた芸術作品のアウラは複製技術によって衰退していくが、その中で人の顔だけが礼拝的価値を保ち続けるだろう、と。それは人の顔がコピーできないオリジナルな存在であり、故に見る者に強い印象を与えるからです。

漂わせ系写真には「顔」がないため、構図さえわかってしまえば誰もがコピー可能。オンリーワンじゃない。誰が写っているのかもわかりません。でも、だからこそ日常生活の写真にも関わらず、生々しさのない「見ていられる」写真になるのです。友だちの私生活を何となくは知りたい。けど、あまりダイレクトで生々しいとなんだか疲れてしまうから…。

匂わせているのではない、漂っているのだ

私調べですが、漂わせ系の写真を撮った女の子は、割と高い確率で写ってしまった男子に好意を抱いています。控えめに、それでいて少しプッシュ型のアプローチ。「好きだと言えないこの距離感ごと君に届け」ってやつとか「本当は君と一緒にいるって言いたいけど誰に見られているからわからない…でもSNSにあげたい」ってところでしょうかね。これが漂わせ系のマインドなのです。

多くの場合、彼女たちは他人に向かってリア充アピールをしているのではありません。その真相は「君と私の世界」に向けて漂わせ写真を送っているのではないでしょうか。故に、「自分」と「写ってしまった人」との関係性を明言する必要がないのです。そして意図せず被写体となった男の子は、SNSにあがっている自分を見て…一体どう思うんでしょう? 悪い気はしませんよね。

絶対的でないからこそ、コピー可能だからこそ、そこの文脈を妄想してしまう。そんな漂わせ系女子を見ていると、こんな言葉を思い出すのです。

言いおおせて何かある。

漂わせ系女子たちは、無意識のうちに、ベンヤミンやら松尾芭蕉の言説を表現しているように見えるのです。まぁ…モテるよね。


※写真を載せてますが、ほとんどが漂わせ系修行中の私めのものなのでご容赦ください…。しかもこのエントリを書くために撮ったり過去のやつを探したやつ。Thanks! ayumi

※ゼミの長谷先生から指摘があってベンヤミン先生の表記を直しました(恥ずかしくて死にたい)!

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