確率の世界から part2

part1はこちらから

ソクラテスが自分は知らないことがあるということを唱えて以来、人類は自分が知らないということを前提に進んできた。

もちろん、宗教と呼ばれたものは、その範疇にない。

彼らは完全性を唱えたものだからだ。彼らにとってある法則=教義こそ完全なものであり、人はそれに従うものだった。なので、当然完全なものに従っている以上、そこに疑念はなく、当然、教義の始まり、つまりキリストであったりブッタであったり、そもそもの神そのものについてであったりに、疑いを持ち、その先へ進めようということは決してなかった。

あり得たものは、解釈のみであった。経典の○○という箇所は、△△という読み方ができる。だから、人は××のように生きなければならない、というように。

人はある宗教という名のルールに従っていた時代があった。

だが現代は、異なる。

現代は誰しも完全なルールが存在しているとは思っていない。だからこそ、「今」最も正しいと思われるルールを疑いもするし、だからこそ、新しいルールの創造が行われるのだ。

そしてそのルールの正しさは数字で示される。その正しさを保証するものは「確率」という、「神に最も近いルール」のひとつだ。

では、例えてみよう。

人間は完全に理性的な生き物ではないのは誰でも直感的にわかることだろう。しかし、それをあえて仮定する「ルール」が存在する。経済学と呼ばれる「ルール」の一部にその名を連ねている。

人は完全に理性的な合理的な行動をとると仮定し、最も有り得る行動を考えるものが経済学の出発点である。そこから「なぜ人は合理的に行動できないのか?」という例外の原因を探っていくものだ。

人は完全に合理的であるなんて間違った前提に立っているものだから、当然出てくるルールにも間違いだらけで、現実の人の行動を表現し切ることは全くできない。

ラプラスの魔なんて存在しないのだ。

そのルールが正しいものであるかを現実の数字から完璧なものであるとは言えない。だからこそ、そこには確率というルールが存在していた。

つまり、完全でない理由に「確率」というルールを置いたのだ。

このように、確率というルールは、他のあるルールの制約のもとでしか存在していなかった。しかし、このルールは計算をする機械、つまりコンピュータと呼ばれるものの出現で一変してしまった。

もともと、あるルールが正しいかを証明する手段としての計算手法であったはずの確率の世界は、元のルールが存在していなくとも、それ単体で、「何かを」証明し続けているのだ。

物事の背景にある統一された系、つまりルールはわからないけれど、結果的にそのルールに似た何かはわかる。それが、AIという考え方だ。

自己完結するルール。

世界がどのようなルール構成されているのであれ、それが計測され、確率の世界で、尤もらしいものであれば、それで良い。そこに論理的なつながりはなくとも。その背景の真のルールは誰も知らなくて良いのだ。

あなたは、わたしは、そして彼ら自身も。

どんどん世界は記述されていくけれど、そこには「確率」という冷酷なルールでしか表現されていない。

あなたも、わたしも、そこには誰もいないのだ。

ようこそ、新しい宗教の時代へ。

ようこそ、確率の世界へ。


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