「善意という死者、悪意という生者」002

小さい頃、僕は言葉が嫌いだった。
外の世界で意味はあっても、僕の内側でどうしても僕には実感ってやつが伴って来なかった。
もっとも古い記憶は、両親が僕のことについて真剣な表情で話しているところで、きっとそれは僕がどこか上の空だったり、あまり笑わないからだったのだろうと、もう少しだけ年齢を重ねた僕は考えたけれど、当時の年齢すらあやふやな小さな僕には、ただひたすら不穏な空気だけがまとわりついていた。
ただ、両親の話す言葉が分からなくとも、布団に入って母が髪を撫で、電気を消し、部屋の扉を閉めた時、扉が向こう側の明かりを切り取っていくその瞬間に、その暖かい布団の中で、心の井戸のそこから冷たい水が溢れ出すのを感じていた。
それが僕の最初の記憶。
言葉の意味ではなく、言葉「そのもの」が僕の心を、意識を締め付けていた。
それから少し成長して、周囲の喋ることに頷いたり笑ったりしたけれど、僕の意識は一枚の薄い膜を挟んで外側に言葉というものが存在している気がしてならなかった。
しかし不思議なことに、言葉の意味というやつに実感は伴って来なくても、なぜだか、その存在感だけはやはり、ありありと感じられたのだ。
友達が喋る昨日のTVに出ていた芸人の新ネタも、内側にはどんな波紋も投げかけないけれど、その言葉がただの空気の震えなんかじゃなくて、確固たる物質感をもっていて、この透明な膜さえなければ、触れてこねて、僕の好きな形に変えられるような気さえしていた。
ここで問題だったのは、言葉の「意味」に実感が伴っていなくても、その反応を周囲が’期待していることだった。
どうしても、そのズレが僕の発する反応に現れるらしく、特に小学校低学年のようなあらゆる言動と意識が直結しているような年齢では、そのズレはそのまま周囲との溝となり、僕はそれなりに「孤独」とみられるような学校生活を送っていた。
そんな孤独と見られようが、正直どうでもいいと感じていたけれど、僕の両親はやはりどうにかしなければと、なにか障害なのではないかと幾つも病院に通うようになった。
病院に通うことは、僕の人生で初めて、他人に心に侵入されていると感じる出来事だった。
今でもそうだが、成長期の子供の脳の中にはどんな電脳分子群も入れない。
それは、電脳分子群が、人生の中での唯一の脳の成長期に侵入してしまうと、十分な発達を妨げてしまうとわかったからだけれど、当時はちょうどその論文が発表され、電脳分子群を全人類に張り巡らせて仕方のない企業(プラットフォーマー)たちの「子供の時期から電脳分子群を構築することで、よりインターネットという社会そのものに適した人格になる」という真っ向から対立する意見で、世間が騒いでいた頃だった。
そういった世相の中で、僕の通わされていた病院は子供の脳みそに電脳分子群を入れるべきではないという論文派だったらしく、僕の「治療」は、昔ながらのfMRIやペタペタとおでこや頭に被せられた脳波を測定する機械のような古めかしいものだった。
当然、電脳分子群のように意識の全てを丸裸にできるわけもなく、断片できな情報から医師が「推測する」という医療行為になるわけだけど、その昔ながらの僕の脳をどうにか読みとろうとする機械は、サイズも、その動作音もとても大きく、目に見えない電脳分子群と違って明らかに僕という意識を読もうとしているのが明らかだった。
ほぼ体の沈み込まない台の上に寝かせられ、頭の位置を調整するためだけの硬い枕に重い頭を乗せ、視界の上の方からまるで蓋のように僕の意識をドロドロに溶かし、飲み込もうとする半円の機械が迫ってくるのだ。
だからこそ、僕は病院というところを恐怖した。
今まで、言葉の意味というものでは一切寄せ付けていなかった僕だけの城に、初めて得体のしれない大きな機械が迫ってきていると感じたからだ。
まるで、とてつもなく大きな蚊が、僕の意識を吸い取ろうとしているかのように感じ、意識の井戸の奥底から大変恐怖したのを覚えている。
言葉の物理感とは違う、どこまでも現実の物理現象で、僕の意識を心を読もうとしていることに、本当の恐怖と感動の入り混じった複雑な泥が渦巻いていた。
だからこそ、僕はそれまで周囲からの孤独も、「ズレ」も全く気にしていなかったのを、努力してきにするようにし、そのズレを覆い隠すように「反応すべき」反応を憶えていった。
ここは笑うところ、ここは悲しむところ、恥ずかしがることろ、ここは悲しくなくても泣くところ。
そういう社会に求められている反応というものをどうにかおぼえ、孤立せず、なにより病院に、あの不気味な機械たちに囲まれなくて済むようにと擬態を作り上げていった。
努力の甲斐あって、小学校を卒業し、中学校に入る頃には、客観的には友人と呼べうようなクラスメイトもでき、病院にいくことは、絶滅しかけのインフルエンザで行ったこと以外はなくなっていた。
しかし、どこまで厚い皮を被ろうとも、心は常にその乖離を泣き叫び、擬態に色がつき、モノクロでなくなり、ツルツルだった表面に人間らしい肌色と凹凸ができるようになるにつれて、その叫びは、いつしか音がなくなり、小さい頃僕を押しつぶそうとした言葉の存在感そのものになっていった。
僕は、擬態の一環として、なにも問題ないように見せるため、中学校には入り勉強に励むようになった。
そのおかげで、僕は大学までストレートで進めることができ、両親もどこかにしこりのようなものを感じていたのだろうが、嬉しそうにしていたのを憶えている。
僕はいくつか大学を選ぶことができたが、その中でも東京の医療工学系の学部に進むことに決めた。
理由はいくつかあるけれど、大きいものは2つだった。
一つは、小学校高学年から、つまり擬態を覚え始めた頃から、両親との間にも透明で柔らかな壁ができていたこと。
そして、もう一つは僕の意識の最大の問題だった「言葉」に、物理的なアプローチができることだった。
つまり、僕が病院で感じた恐怖を、僕の根本原因の解明のために使おうとかんがえていたのだった。
それから、成人の日を迎え、頭の中に電脳分子群を入れれるようになった時、僕は長年感じていた疑問を解決する手段と、小学校の頃に感じた恐怖を天秤にかけることになった。
言葉の質感という僕の根幹的な問題を解決と、あの物理的に心に侵入されることの恐怖だ。
成長するにつれ、言葉に対する質感を感じる強さはますます大きくなった。
そして僕は大学で電脳分子群を専攻していたこともあり、というより、この問題の’解決のために勉強していたので、当然とる選択肢は結局一つしかなかったのだった。小さい頃、僕は言葉が嫌いだった。
外の世界で意味はあっても、僕の内側でどうしても僕には実感ってやつが伴って来なかった。
もっとも古い記憶は、両親が僕のことについて真剣な表情で話しているところで、きっとそれは僕がどこか上の空だったり、あまり笑わないからだったのだろうと、もう少しだけ年齢を重ねた僕は考えたけれど、当時の年齢すらあやふやな小さな僕には、ただひたすら不穏な空気だけがまとわりついていた。
ただ、両親の話す言葉が分からなくとも、布団に入って母が髪を撫で、電気を消し、部屋の扉を閉めた時、扉が向こう側の明かりを切り取っていくその瞬間に、その暖かい布団の中で、心の井戸のそこから冷たい水が溢れ出すのを感じていた。
それが僕の最初の記憶。
言葉の意味ではなく、言葉「そのもの」が僕の心を、意識を締め付けていた。
それから少し成長して、周囲の喋ることに頷いたり笑ったりしたけれど、僕の意識は一枚の薄い膜を挟んで外側に言葉というものが存在している気がしてならなかった。
しかし不思議なことに、言葉の意味というやつに実感は伴って来なくても、なぜだか、その存在感だけはやはり、ありありと感じられたのだ。
友達が喋る昨日のTVに出ていた芸人の新ネタも、内側にはどんな波紋も投げかけないけれど、その言葉がただの空気の震えなんかじゃなくて、確固たる物質感をもっていて、この透明な膜さえなければ、触れてこねて、僕の好きな形に変えられるような気さえしていた。
ここで問題だったのは、言葉の「意味」に実感が伴っていなくても、その反応を周囲が’期待していることだった。
どうしても、そのズレが僕の発する反応に現れるらしく、特に小学校低学年のようなあらゆる言動と意識が直結しているような年齢では、そのズレはそのまま周囲との溝となり、僕はそれなりに「孤独」とみられるような学校生活を送っていた。
そんな孤独と見られようが、正直どうでもいいと感じていたけれど、僕の両親はやはりどうにかしなければと、なにか障害なのではないかと幾つも病院に通うようになった。
病院に通うことは、僕の人生で初めて、他人に心に侵入されていると感じる出来事だった。
今でもそうだが、成長期の子供の脳の中にはどんな電脳分子群も入れない。
それは、電脳分子群が、人生の中での唯一の脳の成長期に侵入してしまうと、十分な発達を妨げてしまうとわかったからだけれど、当時はちょうどその論文が発表され、電脳分子群を全人類に張り巡らせて仕方のない企業(プラットフォーマー)たちの「子供の時期から電脳分子群を構築することで、よりインターネットという社会そのものに適した人格になる」という真っ向から対立する意見で、世間が騒いでいた頃だった。
そういった世相の中で、僕の通わされていた病院は子供の脳みそに電脳分子群を入れるべきではないという論文派だったらしく、僕の「治療」は、昔ながらのfMRIやペタペタとおでこや頭に被せられた脳波を測定する機械のような古めかしいものだった。
当然、電脳分子群のように意識の全てを丸裸にできるわけもなく、断片できな情報から医師が「推測する」という医療行為になるわけだけど、その昔ながらの僕の脳をどうにか読みとろうとする機械は、サイズも、その動作音もとても大きく、目に見えない電脳分子群と違って明らかに僕という意識を読もうとしているのが明らかだった。
ほぼ体の沈み込まない台の上に寝かせられ、頭の位置を調整するためだけの硬い枕に重い頭を乗せ、視界の上の方からまるで蓋のように僕の意識をドロドロに溶かし、飲み込もうとする半円の機械が迫ってくるのだ。
だからこそ、僕は病院というところを恐怖した。
今まで、言葉の意味というものでは一切寄せ付けていなかった僕だけの城に、初めて得体のしれない大きな機械が迫ってきていると感じたからだ。
まるで、とてつもなく大きな蚊が、僕の意識を吸い取ろうとしているかのように感じ、意識の井戸の奥底から大変恐怖したのを覚えている。
言葉の物理感とは違う、どこまでも現実の物理現象で、僕の意識を心を読もうとしていることに、本当の恐怖と感動の入り混じった複雑な泥が渦巻いていた。
だからこそ、僕はそれまで周囲からの孤独も、「ズレ」も全く気にしていなかったのを、努力してきにするようにし、そのズレを覆い隠すように「反応すべき」反応を憶えていった。
ここは笑うところ、ここは悲しむところ、恥ずかしがることろ、ここは悲しくなくても泣くところ。
そういう社会に求められている反応というものをどうにかおぼえ、孤立せず、なにより病院に、あの不気味な機械たちに囲まれなくて済むようにと擬態を作り上げていった。
努力の甲斐あって、小学校を卒業し、中学校に入る頃には、客観的には友人と呼べうようなクラスメイトもでき、病院にいくことは、絶滅しかけのインフルエンザで行ったこと以外はなくなっていた。
しかし、どこまで厚い皮を被ろうとも、心は常にその乖離を泣き叫び、擬態に色がつき、モノクロでなくなり、ツルツルだった表面に人間らしい肌色と凹凸ができるようになるにつれて、その叫びは、いつしか音がなくなり、小さい頃僕を押しつぶそうとした言葉の存在感そのものになっていった。
僕は、擬態の一環として、なにも問題ないように見せるため、中学校には入り勉強に励むようになった。
そのおかげで、僕は大学までストレートで進めることができ、両親もどこかにしこりのようなものを感じていたのだろうが、嬉しそうにしていたのを憶えている。
僕はいくつか大学を選ぶことができたが、その中でも東京の医療工学系の学部に進むことに決めた。
理由はいくつかあるけれど、大きいものは2つだった。
一つは、小学校高学年から、つまり擬態を覚え始めた頃から、両親との間にも透明で柔らかな壁ができていたこと。
そして、もう一つは僕の意識の最大の問題だった「言葉」に、物理的なアプローチができることだった。
つまり、僕が病院で感じた恐怖を、僕の根本原因の解明のために使おうとかんがえていたのだった。
それから、成人の日を迎え、頭の中に電脳分子群を入れることができるようになった時、僕は長年感じていた疑問を解決する手段と、小学校の頃に感じた恐怖を天秤にかけることになった。
言葉の質感という僕の根幹的な問題を解決と、あの物理的に心に侵入されることの恐怖だ。
成長するにつれ、言葉に対する質感を感じる強さはますます大きくなった。
そして僕は大学で電脳分子群を専攻していたこともあり、というより、この問題の’解決のために勉強していたので、当然とる選択肢は結局一つしかなかったのだった。
その完璧な世界を僕は忘れないだろう。
言葉というもので完全にかき表すのは不可能だけれど、あえて最も近い感覚で表すならば・・・
光だ。
色などではない、純粋な光だった。
電脳分子群は、僕の血管に侵入すると、速やかに血流に乗って、僕の脳にたどり着き、そして一晩かけて豊かな土壌に深く深く、引き抜けば土ごと抜けてしまうほど根を張り巡らした。
そして翌朝僕の意識が覚醒すると、あらゆるネットのうねりや波、そして構築された全てのつながりが、世界を照らしていた。
空中には光の楼閣がそびえ立っていて、その柱は、壁から、本棚から、キッチンから、そして「色のない島へ」から、あらゆるものから生えていsた。
光は僕の中へと吸い込まれていた。
絶えず揺らぎ、接続され形を変え続ける光の流れを、僕は感じ取っていた。
一応、医療工学に身を置いていたので、この現象がなんであるかは、すぐにわかった。
わからなかったのは、それが世界で僕が4人目の発症者という幸運が僕に降り注いでいる現実のみだった。
この症状は、通常、結果としか認識できないネットをどうしてか現実に存在しているかのように知覚することができてしまうものだった。
「電覚」と呼ばれるそれは、あらゆるものが0と1とその間に横たわる無限で構成された世界で、最も高度で進んだ才能だった。
なにしろ、あらゆる情報が僕にとって言語や映像や匂いや音、そういった媒体を介さずとも知覚できてしまうし、なにより、それを手でこねるみたいに自由に形を変えられるからだ。
どんなに堅牢なセキュリテイで守られた情報であっても、僕はすぐに解除すらせずとも理解できたし、当然その痕跡を当然残すこともなかった。
だから僕は好き放題、人、企業、果ては国家の全てのすべてに触れることができた。
有り体に、一世紀前のSF小説のように言うならば、僕は最強の「カウボーイ」に、たったの一晩でなったのだ。
そしてこの「電覚」こそ、僕の言語に対する問題のすべてだったのだと、唐突に悟ったのだった。

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