「善意という死者、悪意という生者」001

世の中は死者でできている。
植物や牛や魚や、豚や虫や風や土。
そういう自然の食物連鎖の流れの中で死者は生きている。
なんていうことでは、全くない。
ナチュラルなものとは真逆に、どこまでも人工のものにこそ、死者は存在していた。
土の上に覆いかぶさり、夏の夜には脇の下みたいに生暖かな熱を吐き出すコンクリートも、僕が今叩いているキーボードも、そして君が今見ている淡いブルーのスクリーンも。
ありとあらゆる人の手が、いや、人の意識が介在したものには死者宿っていた。
あなたが今日購入した「ハーモニー」だって、それは著者の意識の泥みたいなものだし、彼の死後も「物語という魂」はあなたの意識の中に存在し続けている。
当然僕の魂にもだ。
ところで、それが物語るという意識や魂を媒介しやすいシステムだということは、その通りなのだけれど、結局は媒介されやすさというより「アイデアという意識がどれだけその媒体の表層に出てくるか」という根幹になってしまう。
例えば、あたなが接続されていることすら認識していない膨大なネットの海だって、大元は軍事上の目的から生まれたというお決まりのものだし、当然、自然発生したものではないので、そこには考え出した誰かがいるはずだ。
そしてその誰かが生み出したアイデア、つまり端末と端末を大量に接続し、全体で機能させるというものは、社会参加する人々にとってなくてはならないが故に、大きく、そして気がつかれないほどひっそりと僕たちを制限し続けている。
そう。
根本的には死者たちは大きな「声」は出さずとも、僕たちの意識をからめとっているのだ。
死者が僕たちの足元から這い寄っているだなんてことではなく、僕たちの両耳の間に横たわる3ポンドほどの塊の中で、その絶え間ない囁きを続けている。
「死者の囁き」なんて表現をすると、大抵の人々はあまりいいイメージを抱かないのだろうけれど、決して暗がりから這い出てくるものではなく、大抵は光に満ち溢れた福音と言ったほうがいいのかもしれない。
なぜなら、今あなたの生活からネットワークという概念が消えたとしよう。
それはつまり、現代社会で誰しもが繋がりを維持するため、生みだすため、そして孤独になるために、どうしても必要なツールが一切合切なくなてしまうということだ。
確かに、あらゆるものは、「他の何か」を制約し続ける。
しかし、あらゆる名作の根幹にその創造主の苦悩があったように、制約は、より良い創造に欠かせないもので、あなたを縛るそのシステムも制限し続けると同時に、あなたの限界をどこまでも、どこまでも押し拡げる。
なぜか。
それは、これらの死者は「良い」死者だからだ。
人類史を前に進め、人の生活を向上させ、より「人が人らしく」生きられる世界を創る。
人の善意こそが、淘汰の中で、意識の奥底に、文化というミームに、人と人との関係性の中に生き続ける「死者」だと私は信じていた。
そう。
彼に出会う前までは。
関係性という世界に生きていた僕だからこそ、その始まりを、その顛末を見届けることになったのだろう。
もちろん、始まりだなんて言っても、彼にとての始まりは、その誕生からなのだろうから、その点については僕の推測という域をでないのだけれど。
でも、だからこそ、僕の「死者」が混じっているからこそ、語る義務が、彼の物語を語る義務が、僕にはあるのだろう。
あらゆる不均等な可能性に満ちた世界にあって、正しい方向へ世界がすすむように願うからこそ、僕はこの物語が悪逆の芽をつみ、善意の花を咲かせるための「淘汰」を促すと信じている。
この物語はある悪意の物語だ。
淘汰という確率の世界でどこまでも増殖し、どこまでも進化することで、暴力的な泥で世界を埋め尽くした悪意の物語だ。
どうか彼の「悪意の死者」があなたの「善意の死者」を呼び覚ましますように。

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