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35mmで撮る家族写真。

写真の撮り方で、「視線は動く」ということを表現しようと撮り始めたのが6,7年前。ちゃんと撮りすぎない。視線は動くんだから、もっと、人にすんなり入っていくような写真を。まるで、目で見ているような光景を。

どうしても、ちゃんと撮ろうとすると構図や背景を気にします。でも、そのタガをあえて外すのです。足を開いて、右に左にスライドしたり、ぐいんぐいんまわったり。

人の目はどこか一点を見ているとき、周りのことを見ているようで見れていません。その人の胴体のことを凝視しているわけではありません。
なのに、写真では顔も胴体も、ちゃんとおさめようとしてしまう。うまく言えないけど、そういうこと(=本当に大事なこと)を表現しようと思ったのです。

それが自分の好きな「自然体の写真」につながると。

写真館に勤めて、ちゃんとした真面目な写真を撮ることに慣れ、独立してから自分の写真のマジメさがすっごくイヤで、もっと遊び心をいれたいのに入れられない。体が勝手にマジメな写真を撮ろうとしてしまう。

これは、基礎が体に染みついたということなのでしょうが、このジレンマにはかなり苦労しました。それを撮る量で克服していったのと、人との出会いや経験から学び、克服していった部分も大きいと思います。

お客さんとして出会ったご家族がいて、数年撮り続けさせてもらい、2014年には3人目のお子さんの出産を撮らせてもらうことになりました。僕にとって初めての出産撮影です。助産所の先生も温かく迎えてくださり、そしてなんとかかんとか撮れた、立ち合わせてもらうことができた、出産というとてつもなく命を感じる時間、感動の瞬間。それを味わったとき、パツーンと何かが切れたような、何かを見つけたような、そんな衝動を得ました。

それまでのそのご家族との時間と、その出産撮影という経験から、「この子たちを撮るのに、ズームレンズは必要ない、大切なのは距離感、温度感、現実感。35mmひとつでいいんじゃないか?」

ということに気づかせてもらいました。

そこから自分の特徴ができたように思います。いわゆる「35mmとの出会い」です。35mmはそれまでも使っていたけど、ボケにくいし、広角でもないし望遠でもない、「なんじゃコイツは」みたいなかわいい存在だったのが、レンズから寄ってきたのではなく、自分の思考がレンズに寄っていった、という感じでした。

そこで「視線は動く」に気づき、実験を始めます。ウェディングやほかの撮影でも多用していきました。これが、めちゃくちゃ楽なんです。楽しいんです。「マジメに撮るな、体で感じたままに撮れ、空気になれ、風になれ、」の境地。

まさに流れるように撮る。ボケてても、ブレててもいい。

人間の目はそんなもんだ。

仕事撮影のほとんどでそれを発揮することはできないんだけど、このマインドは自分のテンションや考え方、動き方に活かすことができます。

実験を続けると、「津にオシャレな写真を撮るヤツがいる」というウワサが自分にまで届いてきました。なんじゃそれ笑、オシャレと言われて嬉しいとは思わなかったけど、これが分かってくれる人がいる、手ごたえを感じれたのは嬉しかった。この頃が僕の黎明期で、自分の写真が確立された頃でした。

れいめい‐き【黎明期】
〘名〙 夜明けにあたる時期。 新しい時代・文化、新しい文学・芸術の運動などが始まろうとする時期。

今となっては時代的にそれもふつうになっちゃってるかもしれないけど、この長い長い実験から得たものを活かせるのは、自分しかいない(ということにしたい)。


その頃からずっと、この表現ができるのは家族写真がいちばんで、しかも日常の、家族にもぐりこんで、何気ないひととき、かけがえのない今という瞬間を残したい、と思ってるんです。今その魅力に気付いてなくても、10年後、20年後に確実に涙するような、そんな写真。普遍的なもの。

四六時中、そんな写真を撮って暮らしていきたい。誰かのおうちも自分ちも。これは、やればできると思う。それをやるために、今必死で整えてるの。

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35mmシリーズでした。

運動会や桜のロケーションとか、記念的写真では他のレンズも使ってみてるけど、35mmには愛すべき空気感が漂っている。

もちろん、「ああ、こりゃー35mmではムリだあ」とか、「ここで135mmがあったらめちゃくちゃいい写真になるなあー」とか、そう思うことも多々あるんだけど、それも含めて35mmで付き合いたい。

35mmで撮る家族写真が、いちばん好きだ。

お読みいただきありがとうございました。


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