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『正史三国志から見る諸行無常 Part.1』  【覇者になれなかった三国志のジョーカーと滅びゆく曹一族、生き残った司馬一族の簒奪劇が織り成す魏王朝の興亡】

皆様、いかがお過ごしでしょうか。色々と書き溜めていた読書メモを個人的極まりないことではありますが、出していきたいと考えております。今回は日本人の間でも愛好者が多い漢王朝末期の興亡を描いた三国志について書いていきます。三国志というのは・・・もはや説明不要でしょう。

中国大陸に3人の皇帝が存在したのはこの三国時代と、魏晋南北朝時代の北周・北斉・陳の2つの時代のように個人的には記憶しております。3つも王朝があればそれぞれの物語があります。今回は覇者になれずに終わった三国志のジョーカー、曹操。そして、最終的に覇者となった司馬懿仲達の一族。魏王朝を取り巻く興亡と晋王朝の誕生。そこから得た教訓は「結局は最後まで生き残った人間が勝者になる」という万古不易の真理と言っていいものです。

三国志には大きく分けて2つの書籍があります。1つ目は「三国志演義」。僕ら日本人に伝わってきたのはこちらの物語です。もう一つは正式な歴史書とされる「正史三国志」。作者は陳寿という蜀の人間でした。蜀の人間が最終的に晋に拾われたので、晋王朝の立場で資料を編纂しなければならなかったためにかなりバイアスが掛かっているのが4巻にも渡る「魏書」。しかし、そこからは現代に生きる知恵や、魏王朝が我々に残したものが伝わってくることも確かです。「正史三国志」の特徴は4つあると思えます。

  1. 司馬遷の「史記」同様に編年体で書かれている

  2. 一人ひとりの人物像と生い立ちを描くところから始まる

  3. 権力者側から見た景色とそれぞれの立場から見る景色を垣間見れる

  4. 上記3点を念頭に現代社会に置き換えて物語を楽しむことができる

春秋戦国時代も数多くの国々や人物が出てきますが、三国志もまた多くの人間が出てきます。一人ひとり、それぞれ抱えているものも、考えも違います。その時、その場の状況においての行動の理由も見えてくると「自分だったらこの場面はどうするだろうか」と想像しながら読み進めていくと違った面白さが出てくることも確かです。

「三国志正史」超大国・魏から見た中華大陸の景色

三国志の中でも圧倒的な超大国だったと言っても過言ではなかった魏王朝。その特色は下記6つに分類されるように感じます。

  1. 魏・呉・蜀の三国の中で一番いい位置である華北に位置していた

  2. 黄河から連なる肥沃な土地があった

  3. 優れていれば出自も性格も問わない「唯才主義」の導入で人材が集まった

  4. 漢王朝の首都である長安に近い(東京〜名古屋間の距離)

  5. 富の集約地としての利点もあった

  6. 曹操の死後、組織の官僚化による硬直と権力闘争による弱体化が表面化

この6番目の曹操が死ぬまでの物語を描いたのが僕も大好きな漫画の一つである王欣太さんの「蒼天航路」と、陳舜臣さんの「曹操」です。今までは光が当たらなかった曹操から見た三国志を描いていて、違う曹操像を思い浮かべることが出来て是非とも一読して頂きたい書籍たちです。

超大国である魏王朝の衰退

曹操の死後、後継者は息子である曹丕に決まります。曹丕は漢王朝最後の皇帝である劉宏(霊帝)から皇位を簒奪して400年間続いた漢王朝に終止符を打ち、魏王朝を樹立します。ここからが正式な王朝の始まりでしたが、同時に巨大国家となった魏王朝は数多の問題と制度の機能不全化に苦しむことになっていきます。

  1. 創成から守勢へのステージ変化

  2. 後継者となった曹丕が人間不信から有能な部下を次々と殺害してしまった

  3. 司馬懿は簒奪の意思はなかったが、周囲が彼を殺そうと画策した

  4. 暗躍していた何晏や曹爽を殺さなければ司馬懿は危うい状況だった

  5. 有能な人間がいなくなったために佞臣を牽制できる存在がいなくなった

3番目と4番目でも記した通り、司馬懿仲達は曹丕との関係は悪くなかったので簒奪の意思はなかったのではないかと個人的に思えました。しかし、軍事でも蜀を退けるほどの活躍を見せた司馬懿仲達を快く思っていない勢力がいました。外戚上がりの将軍であった何進の孫である、捻くれ詩人の何晏と癖の強い曹一族の親族である曹爽が司馬懿仲達を亡き者にしようと企みます。当然、何もしなければやられる。やられる前にこちらからやる、ということで高平陵と呼ばれる場所で何晏と曹爽を殺害します。状況的に司馬懿仲達が簒奪の意思はなくとも二人を殺さなければならない事態でした。

このことからも「追い詰め過ぎれば手痛いダメージを受けることに繋がりかねない」「精神的に辛いことがあっても直言してくれる人間を側に置くことの必要性」という言葉にすれば簡単であれど、難しいこともまた事実である教訓を我々に与えてくれている気がします。

魏王朝の興亡から感じたこと

三国志最大のジョーカーであり、英雄でもなければ悪役とも言えない曹操から始まった物語。その物語の華やかさと、作り上げたものが散ってゆく儚さもまた三国志を彩る物語の一部分として魅力を放っているとも言えます。魏王朝の興亡に連なる故事は、曹操のやりたかったことも何もかも結局はどれだけ才覚があっても一人に出来る限界があることもまた事実なのだと我々に伝えてくれている気がします。

  1. 烏林(赤壁)の戦いの敗北から魏の内政固めを始めたことの必然性

  2. 寿命が近いことを悟っていたからこその内政の充実を図った

  3. 溺愛していた曹植に継がせられず、後継者育成の失敗を痛感していた

  4. 儒教に染まり切った中国大陸の空気を変えたかった

  5. 何もかもが道半ばで終わる儚さも知った上で散っていった

曹操という人間は人を見抜く天才でもありました。しかし、その道程の途中でまた、人材を失ったり、一番近かった荀彧は自殺したりと孤独を抱えることもまた多かったのではないかと感じます。一人の人間が出来る限界はあったけれども、それでも曹操が残したものは今も生き続けている気がしてなりません。

曹操が人生を通して残したもの

曹操が人生を通じて、一族や後世に残したものは下記に挙げられるかと思われます。

  1. 魏武注(曹操)の「孫子の兵法」

  2. 隋唐王朝へと繋がる屯田制の制定

  3. 実力主義の導入

  4. 漢詩による数々の文化作品

特に残ったのは1と4。今でも読み継がれる名著「孫子の兵法」を部下が読みやすいようにと注釈を付けていったのが曹操なのは多くの方が知っての通りです。曹操が注釈を付けてくれなければ僕や中国の方々、そして世界中の方々も「孫子の兵法」を読めていなかったかもしれません。そして、漢詩は後の南北朝から隋唐王朝へと移る時に一気に花開きます。文化と実践書を残した功績は「乱世の奸雄」と呼ばれているとはいえ、実に大きかったのではないかと考えられます。

天下に手が届きそうで届かなかった、その激しくも儚い人生は日本における戦国時代を駆け抜けた織田信長にも似ています。最後は築き上げたものが子孫たちがあっさりと壊されていくのをどんな気持ちで眺めていたのかは分かりませんが、曹操自身は「それもまた乱世。夜の習わしだ」と割り切っていたかもしれません。

結局は晋王朝も司馬懿仲達の孫である司馬炎が中華を統一して三国時代を終わらせるも、酒色に耽り出して、外戚や親族の専横が際限なくなり、親族同士で凄惨な殺し合いを繰り広げた後に最終的に中国の外側からやってきた5つの異民族に蹂躙され、数多の王朝が興っては消えていく五胡十六国時代と南北朝時代が300年以上繰り広げられることになります。


三国志の中で戦って、散っていった人物たちの想いや残したものというのは一体何だったのかと思わざるを得ない結末ではありますが、これもまた歴史の一部分に過ぎないということ。僕らの生きる現代も結局は歴史の一部分に過ぎないということ。全力で生きることと、結局は塵と消えゆく人生の儚さの相反する2つの感情をハンドリングしながら僕らは生きなければならないのでしょう。

曹操が残したもの。そして、成し遂げようとしたこと。出来なかったこと。それらを引っくるめて魏晋南北朝時代へと、隋唐王朝が統一する次の時代へと進み始める礎を作り、曹操がいなければ三国統一の礎すら築かれなかったことを考えると、結果はどうなるか分からなくとも人生を駆け抜けることの意味と、それぞれの人生をどう生きるかの示唆を魏王朝の興亡は我々に伝えてくれているのかもしれません。

夏侯惇と曹操 「蒼天航路」最終話から


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