ネットで生きるということを考えてみる

この話でツイートで書ききれないので書き出してみる。

SNSとはなにか

SNSとは何かから考えてみよう、Social Networking Service(ソーシャルネットワークサービス)、直訳すれば社会的ネットワークが構築可能なサービスである。
社会的、ということはそこに人と人との繋がりがあり、感情が入る。
よく「Twitterの民度が低い」「instagramは陽キャ向け」など揶揄されることがあるが、サービス自体の構成での好き嫌い(デザイン、機能)で好みが分かれる時点で、そのアプリを利用するユーザーが大きく分類されてくる。
それは時として「○○製品を使う奴は△△」という言葉に置き換わるが、製品・サービス自体は何も悪いところはない。
時には意図しない使われ方をすることもあるだろう。

何が言いたいかというと、「サービス自体は何も悪くない」ということだ。

社会的ネットワークとはなにか

社会的ネットワーク、SNSでいえばフォローフォロワーの関係性や、インフルエンサーという表現が分かりやすい。
フォローフォロワーの関係はリアルでいえば、隣人や友人といった個の関係性を意味する。
インフルエンサーは極端な例を挙げれば宗教の教祖様だ。
身近な話でいうと、複数人を引き連れるリーダーであり、クラスの中心であり、市区町村長などもそれに値する。
発言一つ一つが大きく影響をもたらすことだ。
もちろん枠組みも社会的ネットワークの一つだ。
学校や会社、なんらかの団体、ファン集団や友人グループも社会的ネットワークと言える。

匿名性の存在

日本人はSNSでは匿名性を利用することが多い。
これは日本のネット黎明期に起きた文化が、昨今話題の「ひろゆき」氏が過去立ち上げた2chで「名無し」がよくつかわれ、その中で自身の発言を紐づけたい人が「コテハン」(固定ハンドルネーム)を使い、成長してきたことに起因しているのだろうと思う。
先駆者が匿名やハンドルネームの概念を以て利用していれば、あとから参入してきたユーザーはそれを見習う、そういった行動特性は「個の主張」を薄くする日本の教育制度において深く馴染んできたと感じている。
そのため、海外ユーザーにはこの傾向はあまり見られない。
これを書いてる自分自身もハンドルネームはリアルとなんら関係ない。
SNSの発言は相互認識していない状態では「知らない人」が「街でブツブツ言ってる」だけである。

ネット上でのコメントや横入り

マスメディアがニュースをツイートすると、それに様々な意見がぶら下がる。
人気タレントが発言すると、それぞれの価値観で賞賛や批判の声が飛び交う。
それらはリアルに置き換えれば、選挙演説で弁士が現政権を批判し、それらに"そうだそうだー!"と賛同したり、"何言ってんだこのやろう!"と反対したりしている構図と同じだ。
町内会議やマンションの自治体、クラスでの文化祭のもの決めもそうだし、校長や社長の年始の挨拶も似たようなものだ。

それとは別にAとBが話しているところに、まったく関係のないCがいきなり話に割って入ってくることがある。
これらは例えばカフェで友達と話してたら、見ず知らずの人がナンパしてきた、だとか、学校で友達とボール遊びをしていたら、クラスのあまり知らない子が混ぜてほしいと言ってきたとか、そういう類のものだ。

それらは普通に起こりえることであり、当然好意的に受け入れる人もいれば嫌う人もいる。
嫌う人は閉じたネットワークで自分たちの思考・行動を増長させる傾向にある。

ネットとリアルの人格

ここまでネット上と現実の比較をしてきたのには、この話題をしたかったからである。
ネットでは非常に饒舌なのに、リアルでは根暗で独りぼっち、という姿もよくある話だと思う。
ではこのユーザーはどちらが本当の性格なのだろうか。
答はどちらもその本人であるということだ。
話が出来る場では社交的なのであれば、その本人は本来社交的である。
しかし、現実で独りぼっちなのは、単に「見られることが怖い」であったり、「自分を見せる場がない」からそうなっているだけである。
つまり環境が適応していないのだ。
逆にネット上では無口なのに、リアルは友人たくさん、というタイプはただ単にツールの使い方、そのツールの主要なユーザーとの接し方の性質が違いすぎて馴染めないということを意味している。

最近話題の「ぼっち・ざ・ろっく」の主人公、後藤ひとりは「ギターヒーロー」としてネット上で発信することは好きだけれど、人見知りでコミュ障でリアルではまともに人と会話すら出来ない、という姿から始まる。
ネットの姿を隠し、リアルでコミュ障を次第に直していくのだがこれはとても分かりやすい例だと思う。

そして自分が大好きな作品として「ソードアートオンライン」があるが、著者の川原礫氏は自分もやっていたMMORPGゲームのプレイヤーでもあった。
彼がキリトで表現した姿として、キリトの成長、特にSAOの2年間を経て、それまで距離を置いていた妹と接せられるようになったり、SAOサバイバーのみんなの中心になったり、彼自身がゲーム内で人を切らざるを得なかったことで悩んだり、という描写がある。
また、「圏内事件」で描かれた「リアル夫婦の2人がゲームに移ったことで関係性が変わってしまった」というあたりは非常に趣深いものがある。
ネット上に居てもそこにはかならず相手が居て、自身のパーソナリティが存在する。そしてそれらはリアルの自分に返ってくる。
その描写はとてもネットとリアル、どちらも「自分」であると感じさせられるからこそ、面白くもそれを理解している以上、自身の振り返りに悩む場面んも多い。

また、自分は今はMMOSLG「三国志真戦」で、同盟という200人規模の団体を率いている身だが、いわばこれは社会の縮図であり、そこでの立ち振る舞いや特定の異なるバックグラウンドを持つ人が集まっての組織運営をする上での非常にいい経験になっている。

ネット処刑という問題

さて、かなり話が逸れてしまったが元に戻りたいと思う。
「ネット処刑」という言葉がトレンド入りしたのはこの発言が起因だ

何が問題か改めて振り返ってみよう。
①TikTokで様々な人が「一般的な倫理観からすれば」②「迷惑な行為」を嬉々として動画撮影し、③ネット上に自身から上げている。
そして、それを④観測した人が拡散し、⑤リアルを特定した人がそれを晒し⑥また別の他人がその周りの環境を荒らす
ということだ。
ここで言えるのは「外食産業や店側は絶対的な被害者であり、加害者は法と倫理によって罰を受けるべき」であるということ。
が、ネット処刑という言葉はそう新しくない。
マスメディアが事件の加害者や、例えばタレントの家を特定し、張り付き、時に突撃取材し、それを大きく騒ぎ立てる。
この行為とどう違いがあるだろうか?
メディアには捜査権もなければ、プライバシーの侵害にあたる場合もありうる。
さて、上で番号を振ったものを再整理する。

①TikTok

冒頭にも書いた通り、ただの発信ツールに過ぎない

②迷惑行為・犯罪行為

本人たちは他人に迷惑と思っていないから楽しそうにしている。
その背景には道徳や倫理が欠けているからやってしまう。
社会生活を送る上で問題になるかならないか、を高校生や大人になっても分からない人が一定数いるのは、学校教育だけでなく親が善悪を教えられなかったことにあるといえる

③ネット上へのアップロード

自分たちが楽しんでいる姿を主張したいからアップロードする。
面白いことをやってるぜ、見てくれ、という承認欲求があるからこそアップロードしてしまう。
これ自体は悪いことではないが、SNSは見ず知らずの他人に見られることであり、自分の家の中(ローカルネットワーク)でやっているだけなら問題にならないが、他人(飲食店)の場所で人前(ソーシャルネットワーク)でやっていることが問題に繋がる。

④観測した人が拡散

拡散者、というのは時に善であり、時に悪である。
TikTokの動画を面白おかしく上げているアカウントがあり、やっていることは無断転載そのものである。
ツイートでコードギアスの話題を挙げたが、ディートハルトというメディア屋はコミュニケーションハブにもなり、発信力もあった。
ディートハルトはカオスを望むために行動しており、そこに「善悪」が存在しない。
時に社会的に良いとされることを報道し、特定の人物の評判を上げ、時に特定の人物を糾弾する嘘の情報を流し評判を下げる。
情報を統制する、流す相手を選べるこの役割は社会貢献にも扇動にも長けているが自身にはそれを作り出す能力は一切持たない「転がし屋」である。
非常に厄介な存在でもある。

⑤リアルを特定し晒す

特定班、と言われる場合もあるが、ネットが発達した今、非常に情報は調べ方さえ知っていれば「簡単に」「多く」得られる世の中にあった。
例えば写真の後ろに移った木々やビルから撮影場所・角度を特定したり、着ている衣服の特徴からブランド・製品を特定したり、そういった行為自体は何も悪いことはない。
なぜなら「楽しそうな場所があるな、ここはあそこか、自分も行ってみよう」「あ、この服可愛い、自分も着てみたい」「あ、このケーキ美味しそう、どこだろう、食べてみたい」こういう自己の利益に使うためであれば、情報を得て使うのはあくまで迷惑行為でもなんでもないからだ。
問題は「晒す」という行為にある。
これも④と同じなのだが、情報をばらまくことで、周りを扇動することができてしまう。

⑥赤の他人が周りの環境を荒らす

ここが今回の話題の大きな問題だ。
GoogleMap上の店や学校の名前が書き替えられたり、実名が流れたりしている。
犯罪と認められた場合、刑事処罰を受けるが、それらは少年法によって制限がかかるので、実名公開は少年法で禁止されているのに対し、一般人が晒上げることは少年法に対する違法行為となる。
被害者ではない人間が、加害者を法に則らない形で糾弾するということは法や倫理に基づいていない限り、私刑でしかない。
私刑とは、法的権限を持たないものが、自身の美学や理念によって裁きを下す、というものだ。
今回でいうと実名を晒す=名誉棄損罪に逆に問われる恐れがある。
ましてや、もし「お前みたいなクズは社会に要らん!」という過激派が彼らの自宅を特定し、傷害行為に至ったらどうするのだろうか。
昔からあるマスメディアが加害者の実家に押しかけ、一家離散、というのと構図的には同じことが起こりうる可能性もある。
また、学校などが特定され、拡散され、いたずらでMap上の名前を変えられたりしているのも名誉棄損で訴えられる可能性があるだろう。

訴えらえる=やってはいけないことをした=たとえ善意で行ったことだとしても、法に照らせば「悪」になってしまうのである。

幕末には「天誅」は「天に代わって罰する」という殺人行為が横行したが、結局は誰かが信じる「天」という不確定な存在を言い訳にして、人を殺していたにすぎない。これも「同じ思想を持った特定の人達」が行った私刑だ。

小松左京の「日本沈没」でも、震災に見舞われた子を助けた人が、自分たちの身は自分たちで守らなければならない、と組織された自警団によって「推定悪」(いわゆる外から来た火事場泥棒かもしれない)と認定され殺害されている。
こういった行為も私刑だ。

また、コードギアスでルルーシュの名言として「撃っていいのは撃たれる覚悟のあるやつだけだ」という言葉がある。

彼は自身と妹の境遇に対し蜂起し、他人を扇動し、多くの血を流して勝利を勝ち取った。
(本編最後には孤独になったものの、「復活のルルーシュ」の最後ではC.C.と不死身同士、寄り添って歩き始める姿が描写されている。)

ルルーシュがやったことも結論から言えば私刑以外のなにものでもない。

誇りを大事に

ここで一つの言葉を紹介したい。
コードギアスのルルーシュの言葉で言えば「ノブレスオブリージュ(nobles oblige)」、SAOのキリトの言葉で言えば「ノーブルオブリゲーション(noble obligation)」、どちらも同じ言葉を示している(ルルーシュのはフランス語読み、キリトのは英語読み)が、Noble=貴族、obligation=義務、を意味する。
「力あるものはその力を力なきもののために使わなけれなばならない」(=社会の規範であるべき)という意味だ。
ただ、キリトはこうも言っている。
「その誇り(ノーブルオブリゲーションの考え方)は、どんな法律や規則よりも大切であり、法で禁じられいなくてもやってはいないことは存在するし、禁じられていてもしなくてはいけないこともあるかもしれない」

法など特定の人が定めたルールは、確かに社会生活において、多くの場面で基準となり有効ではある。
いわば法は閾値(しきいち)、一定の基準を満たすか満たさないか、の物差しでしかない。
しかし、その物差しは場合によって機能しなくなる。
ましてや、法を知らない人は、知らずに法を犯す。
分かりやすい例を言えば、日本では銃を所持すれば銃刀法違反ではあるが、アメリカでは護身用の銃の携帯は許可されている、が詳細の決まりなどが州によって分かれているのも知らない人が多いだろう。
立場が変われば、法も姿を変えるのだ。
そうなったとき、人は何を基準に判断したらいいのだろうか?
そこでノブレスオブリージュの考え方が活きてくる。

力をふるう時、それは「人として」「力あるものとして」「良い事」のために使い、その「使った力に対して起きた結果に責任を負う」覚悟をもって、初めて力を行使してよい、と言える。

発信力、拡散力、情報操作権限、それらはすべて「与えられた力」だ。
ネット世界の裏には自分が居て相手がいる。
発信するということはスピーカーで扇動している、これも立派な力の行使だ。
そこにネットかリアルかは関係ない。
道具の使い方、力の使い方をもっと人は意識しながら使うべきなのだろう、と考える。


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