花火


「加藤、さっきお願いしたコピーどうなった?」
 部長の春日の声に史帆は我に返った。
「え?何部でしたっけ?」
「2部だよ!」
「すぐに用意します!」
 小走りでコピー機の前に行くと、係長の若林から声をかけられた。
「これ、刷っといたから。部長のとこ持ってけ。」
 差し出した手には綺麗に折られたコピーが2部重ねられていた。
「すみません…」
「あんまり、ぼっとすんなよ。疲れてるなら、明日、年休取れ、会議は俺が代わりに出といてやるから。」そういって、自席に戻る若林の背中に史帆は呟いた。
「若林さんのせいです」
 史帆は仕事ができて、面倒見が良くて、優しくて、ちょっと根暗な若林に分かりやすく恋をしていた。
 若様、カッコいいよねなどと女子会で盛り上がる女子社員は多いが、史帆はそのレベルではなかった。周囲がちょっと引くくらいにガチで若林に恋をしていた。
 ただ、若林と付き合おうと積極的にアプローチしたりは決してしなかった。41歳の若林と22歳の史帆では歳の差がありすぎる。遠くから眺めているだけで十分、満足だと自分にずっと言い聞かせてきた。去年のあの日までは。


 12月の第3金曜日、居酒屋「タコ太郎」には部署の面々20人ほどが集まっていた。みんなが席についたことを確認して、幹事の史帆は声を張った。
「皆さま、本日はお集まり頂きありがとうございます。それでは、お時間になりましたので、始めさせて頂きます。部長、乾杯の音頭、お願いします!」
「それはいいんだけど、その前に若林君から何か皆さんに報告することがあるんじゃないか?」
 春日は急に隣の席の若林に水を向けた。全員の視線が若林に集まる。若林は頭をかきながら、照れ臭そうに立ち上がった。
「えー。私事で大変、恐縮ですが、私、先月、11月22日。良い夫婦の日に入籍させて頂きました。」
 場は一瞬、どよめいて、その後、おめでとう、とか、おめでとうございます!という声があちこちから聞こえた。指笛を鳴らす馬鹿もいる。
 思わぬ展開に史帆は自分が幹事であることも忘れて呆然としていた。諦めていたとはいえ、若林が結婚となるとやはりショックは隠せなかった。良い夫婦の日に入籍という激寒な行動も若林らしくなくて、若林という人間が分からなくなった。
 どさくさに紛れて、お調子者の女子社員の富田が質問した。「ちなみに、お相手は?」
「えー、富田さんの質問ですが、相手は26歳の看護士の方です。」
 若林の答えに驚きの混じった大きなどよめきが起こった。「若い!」そんな声もどこかから聞こえた。
 26歳…史帆は小声で呟いた。自分とそんなに変わらない年齢の女と若林が結婚したことを知り、史帆の中でさっきとは別の感情が動いていた。
 どよめきが治らない中、若林は声を張った「では、私若林の結婚を祝して、乾杯の挨拶とさせて頂きます。カンパイ!」
「いや、お前がカンパイすんのかい!」
 史帆には春日の声がどこか遠くに聞こえた。

 史帆はアパートのベランダで笹の木キットを組み立てていた。造花の笹の木バージョンのようなものをAmazonで3千円で購入したのだった。
 いくつかに分かれた人工笹のパーツをつなげて、土台にセットして完成。最後に付属の短冊に筆ペンを走らせた。

 "若林さんと一緒に花火を見に行けますように"


 ベランダに設置した笹の木に短冊を吊るすとおりしもの雨ですぐに短冊が濡れて書かれた文字が滲んだ。
 この地方で7月7日の夜が晴れることはほとんどない。
 恨めしそうに星の見えない空を見上げる史帆の頬に容赦なく雨が降り注いでいた。


 1週間後、定時で上がろうとデスクの片付けをしていた史帆は春日から突然、声をかけられた。
「定時後にすまんが、ついさっき、ヒガシムラ工業でボヤがあったらしい、至急、現場に確認に行って欲しい。」
 史帆の所属する調達部では仕入先の管理全般が仕事のため、このようなことはままあった。
「分かりました。」
 史帆がそう言って部署の出口から出ようとすると、若林が携帯片手に入ってきて、春日に言った。
「部長、ヒガシムラ工業の件、俺、行ってきます。帰りそっち方面なんで。」
「若林さん、今回は私に行かせて下さい。ヒガシムラは私の担当です。」
 史帆はいつになく、強い口調で若林に宣言した。
 いつもいつも、若林に頼ってばかりでは自己嫌悪が募るばかりだ。
「じゃあ、2人で行ってこい。」
 春日の指示で結局、2人とも現場に向かうことになった。
 期せずして、若林の自家用車の助手席に座ることになった史帆はヒガシムラ工業までの道中、緊張して言葉も出なかった。若林も言葉を発することはなく、クルマの窓ガラスを叩く雨の音だけが車内に響いていた。
 ボヤ騒ぎの原因は工場の駐車場で焼き芋を焼いた後、火を消さずにそのままにしていたのが、近くのダンボールにに引火したというものだった。煙が立ち昇るのを周辺住民が目撃して、通報。幸いボヤで済んだが、消防が駆けつける騒ぎとなった。
 ヒガシムラ工業の役員は平謝りだったが、焼き芋の当事者に「なぜ、火を消さなかったのか」と若林が問い詰めると、
「雨降ってたんで、勝手に消えると思って。」
 という、訳の分からない答えが返ってきた。若林は努めて冷静に再発防止の徹底を要求し、春日に報告の電話を入れた。
 ヒガシムラ工業を出る頃には雨は止んでいた。
「雨、止んでんじゃねーか。そのままにしてたら、やばかったな。」
「私、焼き芋、大好きです。」
「お前が焼き芋好きかどうかは一言も聞いてない。」
 若林は空気を読めない言動を平気でする人間を何よりも嫌っていた。
「すみません……。」若林の性格を知り尽くしている加藤は、落ち込んで、下を向いた。
 一呼吸おいて、若林は言った。
「加藤、この後、時間あるか?」
「はい。ありますけど…?」
 史帆には若林の言葉の意図がわかりかねた。
「折角だから、花火、観に行かない?
 ここちょっと行った高台によく見えるとこあるから。」
「是非!」
 史帆は即答した。


 山道をクルマでしばらく登ると、開けた平地に停車した。クルマの外にでると、眼下に、市内の夜景を一望できた。
 会社のビルも史帆のアパートも、湾に停泊する船の灯りも全て見える。
 明滅する無数の光を見るだけで、何故か、史帆は優しい気持ちになれた。
「ここ、穴場なんだよな。仕事でも、仕事以外でも行き詰まったときはいつも、ここに来るんだよ。なんか、優しい気持ちになれんだよな」
 史帆はびっくりして、若林の顔を見た。
「もう、そろそろ始まっててもおかしくないんだけどな。」
 若林が時計を見る。
 その時、若林の携帯が鳴った。
「ごめん、嫁からだわ」
 画面を見て、若林はクルマの方に戻ろうとした。
「行かないでください」
 気づくと史帆は伸ばした左手で若林の右手首を掴んでいた。
 若林は一瞬、驚いた表情を浮かべたが、優しく史帆の手を解いて、言った。
「すぐ、戻るから。」
 若林はクルマの方に歩いていく。バンッとクルマの締まる音が響き、史帆は外に一人取り残された。空を見上げると、無数の星がはっきりと見える。
 ヒュー、ドーン! 突然、轟音が響き、数秒遅れて、夜空に鮮やかな紫の輪がパッと開いて、ゆっくりと消えた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?