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学問って何ですか?

 学問って何ですか?

 これに即答できる人は、どれくらいいるでしょうか?
 私もできませんでした笑

 なので、3つの本を読み、私なりに考えてみました。

 最後まで読んでいただけると、嬉しいです☺️

1 辞書で調べてみる

 勉学すること。武芸などに対して、学芸を修めること。また、そうして得られた知識。

広辞苑

 う~ん。
 勉学することが学問ならば、学校で子どもたちは学問をしているといえるでしょうか?
 私としては、受験のために勉強している学校や塾の学習を「学問」というのは、少し抵抗があります。
 「勉学」の捉え方に問題があると思い、意味を調べると、

 学問につとめはげむこと。

広辞苑

 う~ん。
 勉学ということばで学問を説明し、学問と言うことばで勉学を説明してしまっています。
 これでは、言葉が循環してしまいます。

 そこで辞書ではなく、本を読んで私なりに考えてみようとした次第です。

2 学問のすすめ

 言わずと知れた、福沢諭吉の名著ですね。
 その中に、このような記述があります。

もっぱら勤むべきは、人間普通日用に近き実学なり

「学問のすすめ」福沢諭吉

 現代語訳すると、
 「みんなが一生懸命にやるべきは、ふつうの生活に役立つ学問です。」

 福沢諭吉のいう「学問」は「実学」とも言います。
 「実学」とは、世の中の役に立つ学問のことです。
 実学とは、科学だけでなく、人間が生活するために必要な経済学や法学、人とコミュニケーションをとるために必要な語学も実学です。

 これが、福沢諭吉の解釈です。

3 活眼活学

 以前【推し本】として紹介したこの本から、学問について考えます。
 特に”知識と悟道”という章から考えていきます。

 まずはこの2つの文章を引用します。

 現代人は単に知性によって物を知ることしか知らぬ者が多い。そしてそういう知識の体系を重んじ、知識理論を誇る。しかしそういう知識理論は誰でも習得し利用することができる。その人間の人物や心境の如何に拘わらず、どんな理論でも自由に立てることができる。
 平たく言えば、つまらぬ人間でも大層なことが言える。どこを押したらそんな音がでるかと思われるようなことでも主張することができる。

「活眼活学」安岡正篤

 「教える」の真義は、頭の中に記憶したり、紙の上に書きつけたものを伝達することではない。活きた人格と人格との接触、触発をいう。
(中略)
 これあるを得て、初めて真の霊活な人物ができるのである。つまり全生命を打ち込んで学問する、身体で学問すると、人間が学問・叡智そのものになっていく。

「活眼活学」安岡正篤

 指摘されているように、受験のために各教科(国語や算数・数学など)の表層をさらうようなものは学問ではないと言えそうです。

 次に、この文書です。

 知識人の学問もおのずからその型があって、態度方法が一様である。学問研究の対象が何であれ、自分自身その対象に没入し深潜するのではなく、冷ややかに観察者の立場を取って、まずできるだけ多く従来の調査・報告・統計・論文等、研究資料を集め、それを綜合し比較し論評しながら、それに新たな私見を加えるというやり方である。

「活眼活学」安岡正篤

 安岡正篤さんは、このような方法=学問と思うのは、浅見であり無知だと、強く批判しています。

 このような学問では、自己人格の培養・錬成とは全く無関係であり、あるいは却ってその人柄を悪くしたり、他の人々や環境に悪影響を及ぼすことが多いと述べています。

知識人の学問の欠点が見えてきました。

4 人間の建設

 最後に参考にしたのは、日本最大の数学者岡潔と近代批評の表現を確立した小林秀雄の雑談を収めた本「人間の建設」

 この本の中で、次のようなことが言われています。

 学問を好むという意味が、いまの小中高等学校の先生方にわからないのですね。
(中略)
 人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質をもっています。好きにならぬのがむしろ不思議です。人本来の道じゃないから、むしろそのほうがむずかしい。

「人間の建設」岡潔の発言より

 易しいことは面白くなく、難しいことが面白い。
 ところが学校というものは、むずかしいことが面白いという教育をしていないと批判されています。

5 まとめ

 これら3つの本を読んで、受験のためにするような勉強は、「学問」と言えなさそうです。
 学問を究めるというのは、難しいことをすることで、それを「面白い」と感じる。私も数学をしていて、難しいほど面白いと思います。

 日本は江戸時代に、数学の難しい問題を神社に奉納して、それをみんなで解き合う「算学絵馬」という文化がありました。

 結構流行っていたみたいで、そのおかげなのか、その頃の日本の数学は世界的にも最先端のレベルでした。

 江戸時代は、難しいことを面白いと感じ、みんなで問題を解く、学問をしていたのでしょう。

 ですが、活眼活学で述べられているように1つの学問の様式というものが確立して、どうも学問の方向性が変な方向に行っているような気がします。

 もう一度、「学問」とは何なのか、それが悪影響を及ぼさぬように、義務教育段階から見直す必要があるかもしれません。

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