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「古い神社」建物にまつわる短編ホラー小説

久しぶりに実家に帰り近所をぶらぶらと散歩していたわたしは、なじみのある風景が帰るたびに姿を消していくことに寂しさを感じていた。

通っていた小学校は立派な校舎に建て替えられ、田畑がつぶされ工場が建ち、スーパーや住宅も増え、交通量が増えた。発展するのはいいことかもしれないが、知らない町のようでどこかよそよそしく自分が歓迎されていないように感じてしまう。

懐かしさで胸が震えるような場所はないものかと考えを巡らせていると、町外れにある神社を思い出した。あそこなら昔のままかもしれないと、少し距離があるが行ってみることにした。

歩きながら子どもの頃を思い出す。

オカルトや都市伝説や心霊写真に夢中だった小学生のわたしは、ある日、同じようにオカルトにはまっている友達と心霊写真を撮りに行くことにした。
季節は夏、テレビでもオカルト番組が多く放送される時期で、それに感化されたのもあり、撮れたらテレビ局に送ってみよう、なんてわくわくしていた。
 
学校から帰宅し、かぎっ子のわたしは自分で鍵を開けて家の中に入る。ランドセルを置き、小銭やハンカチや使い捨てカメラをお出かけ用のポーチにつっこみ、自転車を走らせ友達の家へ向かう。
 
その子の家が視界に入るとタイミング良く友達が門から自転車を引いて出てきた。顔を見合わせて、にっと笑う。心霊写真を撮るといういつもと違う遊びにお互いワクワクしている。早く現地に着きたくてうずうずしている。いつもより自転車をこぐスピードが速い。
 
目的地は小高い山の上にある古い神社だ。幽霊が出ると噂があるわけでもなく、いわくがあるわけでもない。小学生のわたしたちにとって、自分たちの足でいける、一番不気味そうなところがそこだっただけだ。
公園や河川敷など、他に遊ぶ場所はいくらでもあるので、ここで遊ぶ子どもはほとんどいない。ひとけがなく、木々によって太陽の光が遮られた境内はいつも薄暗いから、何か撮れるかもしれないと期待をかけた。
 
神社の入り口に着く。小高い山には木々が生い茂っていて、セミの鳴き声がにぎやかで心霊とは程遠い。苔が張り付いた50段ほどの古びた石の階段を上った先に鳥居が見える。自転車を端に置き、階段を上る。湿った苔ですべらないようにゆっくり上る。階段の両端にある鉄の手すりはさびてぼろぼろで触るのをためらわせる。人間に警戒したカラスが、かあと鳴き声を上げる。少しドキッとする。ばさっと木から飛びたつ音がする。友達と顔を見合わせて少し笑う、緊張がほぐれる。
 
階段を上まで登って鳥居をくぐれば、短い参道の先に石が積まれた土台とその上にお社が建っている。参道の途中、左側に草に埋もれた手水鉢。
他に誰もいない、貸し切り状態にわたしたちのテンションは上がる。
手水鉢をのぞくと中には汚い水や枯れ葉が溜まっていて、底でイトミミズがうねうね動いている。友達と気持ち悪いと笑いながら騒ぐ。
お社の前にいき、お賽銭箱をのぞくと中には一円玉が数枚ころがっている。自分たちも一円玉を入れて神社で遊ばせてくださいと神様にお願いする。
 
お参りが済むと目の前にあるお社の中がどうなっているのかが気になる。

お社は三方が壁で囲われていて、正面は格子戸がついている。
入ることはできないが、中は丸見えだ。しかし境内は木々が生い茂り薄暗く、お社の奥まで太陽の光が届かない。
中がどうなっているのか真っ暗で何も見えない。確かご神体というものが入っているはず、見てみたい。

格子戸にへばりついて中を覗いていると、友達がカメラのフラッシュで照らすことを思いつく。そうだ、もともと心霊写真を撮りに来たんだと、わたしは使い捨てカメラを取り出す。

罰当たりだとか不謹慎だとか思うより好奇心の方が勝る。格子の隙間にカメラを押し付けるようにしてフラッシュをたいて中を撮る。お社の中が一瞬、パッと明るくなる。明るくなるはずなのに、カメラ越しに見ていた光景は変わらず真っ暗。
 
「何か見えた?」
カメラ越しではなく直接お社の中を見ていた友達に尋ねると、怪訝な表情を浮かべて首をかしげる。友達はお社への興味があっという間に失せたようで、セミの抜け殻を探しにいってしまう。
 
わたしはお社の中が見たくて仕方がない。

目を凝らして見ているとそこに何かがあるような黒いシルエットが見える。
もう一度フラッシュをたいて写真を撮る。
パシャリ、さっきと同じ、真っ暗。何もない。
でも奥に、いる。何かが、さっきよりも大きくなって、いや、こっちに近づいて、
魅せられたように格子戸の奥を覗き込む。
奥をさらに、見たくなる、みたい、みたい、みた
 
急に友達に腕をつかまれ格子戸から引き離される。そのままずるずると鳥居まで引っ張られる。友達の顔を見ると青ざめている。その様子を見て何かやばいことでも起こっているのかと怖くなる。なぜか急にこの場所が不気味なもののように感じる。
 
友達に引っ張られるまでもなく、急いで階段を下りていく。
はやくここから離れたい。
階段を一気に駆け下りとめてある自転車の前で一息つく。
青ざめている友達に何を見たのか聞きたい気持ちと、知りたくない気持ちがないまぜになりしばらく口を開けない。
 
第三者として客観的な位置にいる人は、その場を俯瞰で見られるのでいろいろなことに気づける。友達が第三者なら当事者はだれ。
当事者には何が起こっていた?

お互いの様子をうかがうようにだまったまま顔を合わせていると友達がぼそりと言った。
「黒い影が、」
見えた気がしたのか、はっきり見えたのか、何かしたのか。
友達の答えは何だった?
 
「でもよく考えたらさ、神様がいる神社に変なものなんていないよね」
そんなことを言いつつ、すっかり盛り下がってしまったわたしたちは会話も少なく、のろのろと自転車をこぎ家へ帰っていった。
わたしは夕飯で大好きなハンバーグを食べる頃には、神社で起こったことなどどうでもよくなっていた。
 


小学生の頃の体験を思い出しながら石段を上って鳥居をくぐると当時と同じ風景がそこに広がっていて、わたしの胸は懐かしさで震えた。

短い参道とその先に小さなお社、参道の途中、左側に手水鉢。
境内に降り注ぐ木漏れ日を心地よく感じながら参道を歩きお賽銭箱の前に立ってお社を眺めると、格子戸の向こう側が壁ではなく、開け放たれているのに気が付いた。
 
あれ、なんか記憶と違う。
目の前のこの建物、お社じゃない、拝殿だ。
拝殿の後ろにまわってみると、そこに隠れるようにして、祠と言うのだろうか神社のミニチュア版のような建物が建っている。


どういうこと?
この建物がお社ではなく拝殿ならば、子どもの頃の記憶のように、3方を壁に囲まれていたというのはおかしい。
お賽銭箱の前に立って参拝する人から奥のお社が見えるように、2方は開け放たれていなければ。
だから今のように向こう側が見えるのが正しいのだ。
なぜ昔は壁だった?

拝殿とお社を眺める。古く年季を感じさせ、最近建て替えられたわけでもなさそう。

当時から、こうだった?
なぜ昔は壁で閉じてしまっていたのだろう。
それとも壁くらい大きな何かがそこをふさいでいたのか。
 
そういえば、あの時何が撮れた。
確か現像した写真には何も写ってはいなかった。真っ暗で写真のふちに少しの光。
 
例えばそうだ、レンズを手で覆うとあのような写真が撮れるのでは。
友達の青ざめた顔を思い出す。
「黒い影が、つかもうとしてた」
黒い影がつかもうとしていたのは、カメラかわたしか。
 
それが何であろうとも、よそよそしい町よりこっちの方がよっぽどいい。
昔と変わらない懐かしい風景に、お帰りと言われているような気になって、つい黒い影をさがしてしまいそうになる。

おしまい

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