「きる」 サイコホラー 超短編小説
「小さいころ、こんな天気のいい日に、母さんに散髪してもらっていたんだ。懐かしいな。そうだ、それを再現してくれないかな。今度君の家で俺の髪を切ってほしい」
彼がにっこり笑ってそう言うから、わたしは口説かれていると思い込んでしまった。
だまされた。だまされた自分が馬鹿だ。
いちいち美容院に行って高いお金払うより、腕のいい美容師を自分の懐にいれたほうが、タダで髪をカットしてもらえて得だ。彼はそれをやってのけた。
うちの美容院に通ってくれる常連さん。
顔が良くて会話も上手で、褒めるのも上手で、こっちをいい気分にさせてくれる。
彼の担当になるのが楽しかった。
何回か担当した後、お店の外までお見送りした時にそう言われて、連絡先が書かれた紙を誰にも見られないように素早く渡してきた。
長いあいだ彼氏がいなかったこと、うちの美容院にはかわいい子がたくさんいるのにわたしを選んでくれたこと、なにより顔がタイプなことで、完全に舞い上がってしまった。
その日の夜にはもう連絡していた。
1ヵ月後くらいに会うことになり、彼がわたしのアパートに来た。
なんで、すぐにデートしないのか。なんで1ヵ月なのか。
それは髪が伸びたタイミングだった。わたしもうすうす気づいていた。
お店以外で会うための口実で髪を切って欲しいと言ったのではなく。
本当にタダでカットさせるのが彼の目的だった。
切った後、恋人らしいスキンシップもあったが、それが終わるとあれこれスッキリしたのだろう、彼は満足そうにさっさと帰っていた。
わたしは少しも満足できず、一方的に搾取された虚しさだけが残った。
それでもそんな関係が半年は続いた。つい期待してしまったのだ。次に会うときはもっと優しくしてくれるかもしれない。何回か会っているうちに、愛情が芽生えるかもしれないと。
いや、適当に扱われたことがしゃくで、自分に惚れさせたいと意地になっていたのかもしれない。
彼は結婚していること、他にも不倫相手がいることをわたしは知った。
正直、彼はおかしい。
人を人と思っていない。
人を自分の欲求を満たす道具としか見ていない。
罪悪感が欠落している。思いやりなんてみじんもない。
そんな人間には何を言っても無駄だ。
こっちがどれだけ努力しても心が通じ合える日など来ない。
お互い別の次元にいるかのように、分かり合えることなどない。
そのうえ、彼はわたしをうまい具合に掌握してきた。
俺は猫。気が向いたらふらりとやってくる。毛づくろいしてもらって欲を満たしてもらう。君は、猫が普段どこで何をしているか気にしてはいけない。ただの猫をそこまで気にかけてはいけない。もっと余裕をもって。君の方が主人だよ、すり寄るのは俺の方なのだから。
そんなようなことを恥ずかしげもなく言う。
そう言われたら、わたしはそうせざるを得なくなる。
彼のイメージするわたし、それと違う言動ができなくなってしまう。
でもそんな無理は続かない。
蓋をして封じた不満が、消化されることなくどんどんたまって、
やがてあふれ出し、蓋がせりあがってくる。
わたしにきれいにしてもらってから、他の女の子をくどきに行っていた?
わたしにカットしてもらうことで浮いたお金を他の女の子に使っていた?
恋愛としての妬みより、人として尊厳を踏みにじられた屈辱を強く感じる。
ばからしい、ばからしい、ばからしい。
人間のあらゆる負の感情が湧き上がってくる。
どす黒い感情にわたしの理性がのまれていく。
わたしの中に澱がたまって、もう容量を超えていることなんて気づきもせずに。
彼は今日ものんきにわたしに髪を切らせるためにやってくる。
間抜けな人。
こんなに無防備に背中を見せて。
わたしは刃物をもっているのに。
あなたは誰にも何も言わずにここに来た。言うわけない。
あなたが用心深いのは半年の付き合いでよく分かっている。
どこで奥さんにばれるか分からないから、親しい友人にすら不倫相手がいることは言っていないだろう。
だから、あなたが行方不明になっても、誰もここまで探しに来ない。
誰にも見つからないようにこそこそ悪いことするから、誰もあなたの痕跡をたどれない。
さあ、どうしてくれようか。
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