物事の正解

お前この数日でどんだけ記事書くねんって思ってるでしょう?僕もそう思ってます。
何個記事を書くかは僕にもわかりません。
こうやって何か考えて文章を作っていないと色んなことを考えてしまうからです。

さて今回僕が考えるのは物事の正解についてです。
物事の本質についても思うところがあるのでどちらを書くか迷ってこちらにしました。どっちも書いてるかもしれません。

全ての物事に正解はないなんて言葉をたまに耳にします。
本当にそうでしょうか?確かに正解のない物事はたくさんあると思います。明確に物事に対して正解があるとは言えませんが、物事に対して正解を付けることは出来ると思います。

ある物事に遭遇した際、いくつかの選択肢の中から自分で行動を選んでその物事に対処するはずです。
多分その選択肢から選ばれる行動はあくまでその時の自分が出来る最適解でしかなくて、成功にも失敗にも転がります。
そういった意味では確かに正解はないのかもしれません。
ただ僕はその成功も失敗もどちらも将来的に正解に転がるかもしれない可能性があると思っています。
さらにその時の自分が取れる最適解は正解ではないのだろうか?とも僕は思います。それ以外取りようがないのであればそれがその時点における正解ではないんだろうか?ただの屁理屈かもしれません。

正解がない、というのはその時自分が取れる選択肢の中に正解がないだけであって、物事によってはその選択肢の中に正解がある場合もあると思います。
あの時ああしていればよかったと後悔するのは自分の選択が間違っていたからであって、あの時ああしといてよかったと思う事もあるはずです。
そう思えると言うことはその時の選択があっていたからではないでしょうか?
自身の選択が正しかったと思えるということは、それは正解なのではないのだろうか?と僕は思っています。
ただこれは後から思い返して正解だったと思えるだけで、実際にその選択をした時点では正解かどうかなんてわからないかもしれません。

つまりその時点での最適解が正解じゃないか?とも思うし、後から思い返して正解だったと思えるならその時点では正解はないのかもしれません。

確かに正解というものは今の世の中に蔓延してる既成概念に則って無意識のうちに作られたもので実際にはどんなものかわからないかもしれません。
しかしそれを逆手に取り、物事に対して自分で定義付けをしてあげることで正解が導き出せるのではないか?と思っているので、物事に対して正解を作ることは出来ると思ってます。物事を自分で定義することによって正解も定義できる、という感じです。

決して物事に正解はないということを否定したいわけではないですが、物事に正解はないから自分のやっていることは正しい!というように何でも自分を正当化するのはまた違うなと思い、少し考えました。
物事を自分で定義することも自己の正当化かもしれませんが、自分で考えて定義した上で答えを選ぶことと、答えを選んだ後に正解はないからといって自己肯定することは少し違うと思う。

実際こんなの人の考え方によって変わるんだろうけど、物事の正解って実際何なんだろうね。

寝てないのも影響してると思うけど自分で書いてて考え方がまとまらんし、よくわからない文章になってると思う。だから時間を置いてまた加筆修正していつか考え方がまとまればいいなと思いつつ締めさせて貰います。

ありがとうございました。

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