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私的幸福論

ほっとくと僕はまだ根っからの自分らしさを否定してしまう。
愛されたいという欲求がヒトの本能だとしたら、それも仕方がないのかも、とか思う。

もう30年ほど生きてきて実践データとしてはじき出した経験則では、僕は生身の僕らしさでいてこの社会に馴染む可能性が極めて低い人間だ。
努力とかでどうなるものでもなかったし、こういった話題すら誤解の種になりうるので外では出来ない。傷つくだけのエネルギーが残っていないので。

別にもう、普通という枠に嵌りにいく気持ちは無いし、かといってわざわざハミ出しをアピールする気持ちも無い。強みになるぞ、とかも思っていない。


だいたい1年前は「個性という強みで貢献!」みたいなキラキラした僕がいたのも事実で記憶に新しく、それはそれである種の充足感をもって僕を急き立てていた。
事実、1つ前の年末年始は眠る間も惜しんでセミナースライドを量産していたし。


おかしなことに、というか真っ当なことに、その数ヶ月後に僕はバランスを崩して大暴れしたのだった。
逃れられない自我の崩落の過程でのたうち回った結果、あらゆる人間関係に瑕疵を与えた。切れた縁もある。またいつか会おうではないか。


しかしそれは僕自身が切望したことでもあった。
──自分というものを生きたい。
──何の引っかかりも無く日常を滑らかに生きたい。
実のところただそれのみが本願で、それを叶えるためには当然「社会に馴染むために擬態する」ということに終止符を打たねばならなかった。
前述の経験則からすれば、それは僕にとって「愛されることを諦める」と同義であるが故に一筋縄では運ばぬ道理だ。


本願をいよいよ叶えるために、既存の愛を諦めるか。
僅かばかりの愛を得るために、自分を偽り続けるか。


提示された二大選択肢から、僕は迷わず後者を切り捨てた。
何故ならばもうそれでは長らく満たされずにいて、則ち死に等しい息苦しさを感じていた。
実質前者か死かというような選択肢だったので、どうせいつか死ぬなら今じゃないと判断したわけ。
この消去法は、思い返せば人生において二度目。


そこで出会った人や、出会い直した人がいた。
すごく好きな人たちの中の、すごく好きな人が「キミはそのままのキミがいいんだ。不完全であることが完全なのだ。ダメ人間と言う勿れ。」
などと仰ったので。
また別の好きな人が、波動域の話をしたので。
「地球は“あせんしょん”して非物質化の一途を辿る」ので。
僕は地球に、そして地球人に翻弄されて泣き喚きのたうち回って笑ういつもの僕でいいのかもしれないと思った。


これしか無いような気がしている。今は。

おかしな奴である僕を殺せるだけ殺して、いわゆる普通に擬態して馴染むことで愛されようというのは、とうに限界を迎えてしまっている。

おかしな奴である僕を、盛りに盛って脚色めいたアピールで売り出すことにも終わりが来てしまった。

今思いつく限りの唯一の選択肢は、僕が僕らしい自然な状態でいることだけ。
息を吐いては吸い、肩を弛めて立ち、おしゃべりな口が話しまくることを止めず、小難しい思考やなんかも噛み砕かず、不適切なタイミングで笑い、不可解なタイミングで泣き、取り憑かれたように身辺整理をし、出汁を取りながらもジャンクフードを食う。昼間にバスタブ溢れさす。海辺をゴミ拾いながら歩く。UFO呼ぶ。好きな人を好きだと言う。興味の向くもの以外に興味が無い。自分を責めないし言い訳もしない。誰にも怒られない。


もう何でもいい。それでいい。それしか無い。
すべてのことが起こりますように。

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