「生きている兵隊」(5)

作品のポイント;

ここでは、昭和13年の裁判を通して「生きている兵隊」のもつ歴史的意味を掘り下げていきたい。
起訴理由は二つあった(新聞紙法違反)。
①    虚構の事実をあたかも事実の如く空想して執筆した。
白石喜彦「石川達三の戦争小説」によれば、判決書に判断の記載がないので、争点
として回避されたのではないかと推測している。
②    (そういう行為は)安寧秩序を乱すもの。

石川と、発行人、編集人の3人が起訴された。石川は禁固4か月(執行猶予3年)。14年4月の二審で確定。

①    が争点とならない以上、② が重要視されたのは当然で、その内容を詳しく見てみたい。その内容が世の安寧秩序を紊乱するものであるかどうか。
次の4点が具体的に問われ、最終的には裁判では“紊乱”と判断された。
平尾の姑娘を刺殺する場面
砂糖を盗んだ炊事夫を連隊長当番兵が刺殺する場面
現地徴発で食料を得ていることの叙述
銀の指輪と言う表現を通して、中国女性の強姦・殺害を示唆した叙述

作者も出版社もあらかじめ80枚の削除、伏字、表現の”時局むき”改変等を行い、更には威勢のいい副詞や形容詞を挿入するなど、検閲対策はしていた。石川自身も、問題視された4点に関して、それぞれ已むをえずに行った行為であることを、虐殺ではなく殺すまでにはそれなりの事情があったことを書き込んでいたのである。内容は以下の通りである(もちろん今の眼から見れば、相手を殺す理由としては如何にも弱いものではあるが・・・)
笠原が斬首した青年:自分の家を放火した罪に対して。
近藤が刺殺した少女は、彼に拳銃を向けた(不発)罪に対して。
平尾が殺した母親の死体を抱いて泣いている少女には、我慢したがその限界に達したというような理由が。
武井(炊事当番)は炊事夫の中国人を刺殺するが、「隊長の食事に砂糖が亡くなってしまった」と言う理由が書かれている。

起訴理由の「安寧秩序の紊乱」と言うことを考えると、石川たちの予想を遙かに超える当局の厳しさであったと考えられる。皇軍兵士がかくも簡単に中国人を殺害している・・・・こんな情報が銃後の内地に伝播していけば、国内の戦争目的への疑念や厭戦感が発生し、ひいては動員計画への影響も考えられなくはない重大事と、当局には理解されたのであろうか。

白石喜彦「石川達三の戦争小説」には、極めて興味深い記述がある。
「生きている兵隊」の中国語翻訳文の存在である。白石によると、上海で発行されている「大美晩報」の1938年3月18日から3月23日までの間、連載されていたという。その事実は裁判長を含む当局も掴んでいたようで、裁判長は判決言い渡しの中で「・・・殊に外国で翻訳され悪用された責任は負わなければならない」と述べたという。
この事実が分かれば、裁判当局が“安然秩序を紊乱した”と判断したのも頷ける。
このような翻訳文が出回れば、欧米諸国への悪影響も十分予想され、問題は国内への悪影響だけにとどまらない恐れが十分考えられるからである。

火野葦平「麦と兵隊」を取り上げた時に、彼が「自由に書けなかった」と言う事情として列挙した、以下の6点は検閲上の網として当然かぶせられているわけであるが、本作品「生きている兵隊」は、対外的に発展する問題を孕むだけに、発行禁止に止まらず起訴されたのではなかろうか。
(ア)  日本軍が負けている事
(イ)  戦争に必然的に伴う罪悪行為に触れてはならないこと
(ウ)  敵は憎々らしくいやらしく書かねばならない
(エ)  作戦の全貌を書いてはならない
(オ)  部隊の編成と部隊名は書いてはならない
(カ)  軍人の人間としての表現を許さない

起訴を受けてこの作品は日本敗戦するまで日の目を見ることはなかった。
又、編集部が自主的に削除した80枚の原稿も失われており石川の当初の作品が再現化されることはなく今日に及んでいる。

多くの問題や話題を孕む作品であるが、最後に、この作品に対する敗戦後の批判をいくつか取り上げてみる。
共通している批判は、石川は、日本の将兵の心のありようを描くことには成功したが、その将兵たちの遂行している戦争そのもの、戦争の性格や意味などには目を向けなかったという点であろうか(宮本百合子、白石喜彦、その他)。
次に多くみられるのは、相手側の中国兵や中国人民衆への目線が感じ取れないという趣旨の批判である。
異色の批判もある。中国研究家ではなければ出てこない発想であろうか。
竹内実「日本人にとっての中国像」(1992年 岩波)は、「生きている兵隊」の中で、、日本軍が孫文の眠る中山陵を占領した時の様子、具体的には「巨大な狛犬の背に飛び乗って日章旗を振る」様子を、「今日、孫文とその中国革命における役割、そして、孫文を『国父』と呼んだ中国人の尊敬ぶりを考えるとき、『生きている兵隊』の次の一節は無心に読み過ごすことが出来ない」と書き、当時の(石川を含めて)日本人の中国への無知、無理解を指摘する。

最後に南京事件と石川との接点に触れたい。
作品中、所謂大虐殺に直接触れる記述は当然ながら皆無である。
石川には、自分が見聞した集団虐殺などを“あからさま”に書くまいとする意志があった。当時の強まりつつある検閲への意識の表れである。
小説中には「・・・本当の兵隊だけを処分することは次第に困難になってきた」と書き、敗残兵と区別がつかずに殺害された中国民衆が多数あったことを示唆するなど、表現上の工夫に十分意を用いてきた。
その彼が、昭和46年5月9日付の読売新聞上に、南京事件に関する談話を発表している(取材されたのが談話形式にされたのかもしれない)。
石川談話;
「中国人数千人を押し込んで手榴弾を置き油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた」。「武装解除した捕虜を…機銃の一斉射撃で葬った」
長いこと胸にしまっておいた出来事をあるきっかけで率直に語ったのかもしれない。
しかし、その後、彼は南京事件を背景にした作品を執筆することはなかった。

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