「生きている兵隊」(6)

その他;
「武漢作戦」といういわば「生きている兵隊」の続編とでもいうべき作品に少し触れておきたい。

「武漢作戦」は昭和14年1月「中央公論」に発表された(特派されたのは前年9月)。
ここで取り上げたいのは2点。
①    何故再度の派遣従軍となったのか
②    作品の内容は、有罪判決と言う事実を受けてどのようなものになったのか。

①    に関して結論的に言えば、石川達三から見れば中央公論社への“償い”と自分自身の“名誉回復”、中央公論社からすれば軍を含む当局に対して従順な出版社であることを示す意味での名誉回復と営業上の要請であったといえる。
その間の事情を物語るのは、まだ一審判決が出ていない38年8月24日に石川の派遣を中央公論社は申請(不許可→9月中旬に判決後許可)している事実である。
石川の意識としては、出版社に済まないという意識があって、今回だけは何が何でも検閲もパスして首尾よく出版されなければならないと思ったことであろう。その結果が、当局のお先棒を担ぐことになってもやむを得ない・・・多分そういう心境でなかったであろうか。

本は無事出版され、両者の名誉は回復された。
しかし、後世の批判には厳しいものがあった。
「『生きている兵隊』から国家権力への恭順の姿勢を示そうとした『武漢作戦』への道は、石川達三と中央公論社とが自ら選んだ後退であった」(白石喜彦)

②    作品内容はいかなる変化を示したか
石川は、執筆の目的として「内地の人々に戦争の広さと深さ、戦争の複雑さを知って貰いたいこと。出来るだけ忠実な戦記に構成しようと考えた」と述べている。
いわば、将兵個々の内面に入り込むことを避けて、俯瞰的に、集団としての日本軍将兵の働きや運動を描き、その中で見られた英雄的行為や人間的エピソードを織り交ぜるという手法である。
その結果は、登場する将兵の殆どは品行方正、沈着果敢の軍人となっている。又、取材の源泉を戦場美談と官製ニュースを中心に据えた時、小説の内容が新聞報道に似てくるのも当然であった。
日本軍のコレラ患者の隔離要求や難民保護要求に対するフランス人司祭の拒絶事件に対して、石川は痛烈にフランスを攻撃する。欧米各国は「馬脚」(中国人の利害ではなくて欧米の利害を優先に考えている)を現したと表現する。
更に、「中国民衆に平和をもたらすものは日本国である。コレラ撲滅のための日本医師団の派遣はその一例である」と書くと、それは軍の宣伝方針に沿った内容でしかなく、結果的に欧米と中国民衆を切り離す日本の戦略の片棒をかついでしまったことになる。九江難民区では日本軍の難民対策が成功した姿で描かれ“自治の形も整いやがて商店街が出現するに至った”と書かれている。

「石川が「武漢作戦」を書くにあたって選んだのは、現実は措いて、武漢三鎮占領に至るまでの日本軍の戦いと将兵の軍務をたたえる姿勢であった。「『生きている兵隊』が描きだそうとした戦場における日本軍将兵及び中国側軍民のリアリティは、もはや無用のものだった」という白石喜彦の評語は素直にうなずける。

  以上

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