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2023.5 |いちばん言葉にし難い〈場〉

5月
埼玉県東松山市にある原爆の図丸木美術館 で開催された、ワークショップ〈丸木美術館で変化のかけら探し〉に行ってみた。

12個の中で、いちばん言葉にし難い〈場〉だった。

丸木美術館には、画家の丸木位里・俊の共同制作《原爆の図》が展示されている。
丸木夫妻は、戦後の米軍占領が続くうちから《原爆の図》の制作を始め、生涯にわたって被爆の実情を訴え続けた。
原爆以外に戦争や公害などの問題も取り上げ、丁寧に描いている。

初めて訪れた丸木美術館は、とてもとても遠くにあった。

「埼玉なら隣の県じゃん」と思ったのが甘かった。片道2時間ほどかけて電車で最寄り駅に向かうも、到着したのは無人駅である。心細い。
そこからさらに、知らない土地を30分歩き続け、ようやくたどり着いた。

「原爆の図丸木美術館」は、「原爆の図」という言葉と「丸木美術館」という言葉から成っているわけだが、その佇まいはどちらかというと「丸木美術館」という言葉が持つ雰囲気に近かった。
残虐さや恐怖を感じさせる空間ではなく、おおらかで温かい空気をまとっていた。


丸木美術館ってなんなんだ?

私と丸木美術館の出会いは、同年4月のことである。

その日私は、某大学院の授業に来ていた。当時の私は大学院に進学したいと考えていて、指導を受けたい先生の授業を聴講していた。

2度めの聴講に訪れたその日は、アーティストの瀬尾夏美さんがゲスト講師としていらしていた。
冒頭、瀬尾さんは世間話のような口調で話し始めた。

「昨日、初めて丸木美術館に行ったんですよ」

教室がざわざわした。

丸木美術館! あそこはいいよね 私まだ行ったことないんだよね~ あの人も薦めてたよ 絶対行くべき!

私はとまどった。
丸木美術館ってなんなんだ?
丸木でできている美術館?(そんなわけないか)
何が展示されているの?

「東京都近代美術館」とか「東京大空襲・戦災資料センター」とか言ってくれれば、なんとなくイメージがつく。
でも「丸木美術館」じゃ、どんな場所なのか検討がつかない。

聴講に来ている他大学の学部生という身分なので、極力目立たないように何食わぬ顔をしていた。が、内心ざわざわした。

瀬尾さんを筆頭に、アートに精通している院生たちが口をそろえて「すごい」と言う丸木美術館とは、いったいなんなのか。

「丸木」というのが画家の名前であることを知ったのは、恥ずかしながら、家に帰って美術館のことを調べ始めてからである。

手づくりの空間

調べる中で、偶然にも、2週間後の5月5日が丸木美術館の開館記念日であることを知った。開館記念日に際してワークショップが行われたり、トークセッションが開かれたりするようだ。
行かない手はない。

5月5日。冒頭に述べた長く心細い道のりをへて、なんとか丸木美術館に到着した。
そこで私を出迎えた光景は、祭りだった。

運動会の旗のようなカラフルな布が、いくつもつりさげられている。
人びとがたくさん集っていて、親しげに言葉を交わす。
奥には、簡単な出店も出ているようだ。

そして美術館の水色の建物は、みんなを嬉しそうに見守っているようだった。
学校の体育館に飾られている、卒業生記念の彫刻みたいだと思った。

ワークショップは〈丸木美術館で変化のかけら探し〉と名付けられた通り、丸木美術館の建物がたどった変化の跡を探すものだった。

美術館をよく知る建築家の方や学芸員さんの話を聞きながら、建物の中をめぐる。

「あの屋根瓦は、丸木美術館の設立当初からあるものですね」
「この掲示板、何でできていると思います? 障子の枠なんですよ」
「ここの段差は、建物のつぎはぎ部分です」

え、建物って、こんなに自由自在につくれるものなの?

丸木美術館は、丸木夫妻が新たに描いた絵の大きさや量に応じてつぎ足されたり改造されたりして、今に至っているようだった。

私にとっては、建築の概念が変わった記念日である。


ワークショップが終わって外に出てみると、集った人びとが思いおもいの時間を過ごしていた。

古本を広げて売っているおじちゃんは、私が教員免許を取ろうとしていると知って、詩歌のすばらしさを語ってくれた。(結局その人から、詩集を1冊買った。)

そのうしろにいた上品な雰囲気のおばあちゃんは「年に1回、この日だけ東京から丸木に来るの」と話してくれた。

若い2人組の男性は、昔ここで学芸員実習をしていたらしい。その日も、学芸員実習に来ている別の2人組がいた。私より1つ年下だった。

親に連れられて、タピオカミルクティーを飲んでいる子どももいた。

みんな今日という日を楽しんでいるようで、初めて来た私でさえ、なんだかうれしくなってしまった。

丸木美術館とそのまわり一帯が、5月のぽかぽかした日差しと、まあるくあたたかい膜につつまれているようだった。

「もう中の展示は見たの?」

そうだった。私はまだ、肝心の《原爆の図》をきちんと見ていない。
到着してすぐにワークショップへ参加したものだから、じっくり絵を見る時間は取れていなかった。

「実はまだなんです。今から見てこようかな」

そう言って、冷たい館内に入る。
《原爆の図》は、私の言葉を封じる力強さを持っていた。

言葉にすれば逃げてしまう精霊

到着した瞬間から帰る間際まで、たくさんのことを感じた。

温度、におい、視線、手触り、いろいろ

でもきっと「丸木美術館どうだった?」と聞かれても、私は何も答えることができない。あれほど強く、たくさん、いろいろなことを感じたのに、ひとつも言葉にならない。

かろうじて出そうなのは、「うーん、遠かったよ」「でもとてもよかったから、行ってみて」のふたことくらい。

あれほど強く、たくさん、いろいろなことを感じたのに。
嘘だと思うなら、私の頭をあけて中身を見てみてほしい。

ミュージアムに行ったらnoteを書こうブームだった当時の私は、困ってしまった。
丸木美術館のことを伝えたいのに、なんて書いたらいいかわからない。

よくわからない歌のようなものをつくって、いったん逃げた。

私は、丸木美術館で私に訪れた「なにか」が逃げてしまうのが、とても悲しかった。
それは、精霊のようなものかもしれない。

「すばらしい絵だ」
「原爆はいけない」
「この建物は珍しい」

私が持っている言葉のどれを使っても、精霊はお気に召さないようだった。

「すばらしい」なんて言いきれるの?
「原爆はいけない」って、単純すぎない?
「珍しい」ってどういうこと?

私の胸に疑問だけを残して、精霊たちはどこかへ行ってしまう。
そんな言葉じゃ満足できないわ、とでも言うように。

それがとてもさみしかった。もったいなかった。手放したくなかった。
でも、誰かに伝えたいとも思った。

どうしたらいいかわからない私は、「言葉にできない」という感覚だけはごまかさずに、だいじにだいじに抱きしめておこうと思った。

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