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短編-影を歩む

 朝のアラームが鳴っている。わたしはベッドでそれを聞き流す。身体は起き上がる気すらないみたいだった。
 消え去りそうに線の細い少年だったと思う。今でも顔すらよく思い出せないし、当然その時の服装なんて答えられない。昨日家を訪ねてきた警察には、あの子の名前ぐらいしか言えなかった。
 覚えているのはあの子の瞳と、交わした言葉のいくつかぐらいだった。
 一緒に過ごした三日間は霧のようにおぼろげだった。このワンルームを見渡してもあの子がいた痕跡なんて少しも見つからなかった。たった一週間前の話だっていうのに。
 あの子が人を殺して金を奪っていたと警察から聞かされたとき、やはり驚いたそぶりをするべきだっただろうか。今更ながらそう思った。
 アラームが鳴り続けている。今日は晴れだった。雨が降っていて欲しかった。

 路地裏からぬっと出てきたあの子にぶつかって、仕事帰りのわたしは特売の卵が入ったビニール袋を取り落とした。人気のない歩道で街灯の下に立つあの子はまるで幽霊のようだった。
 あっけに取られているわたしにあの子が言ったことは、確か「すいません、それ」だったと思う。指さしている地面のビニール袋を見れば、ケースの中の卵はほとんど割れていた。
 しゃがみこんで割れた卵を見つめながら、明日の朝食をどうしようかと考え始めたわたしの視界に現れたのは、あの子がすっと差し出した一万円札だった。聞けばお詫びに、とのことだったが、卵代にしてはどう考えても過ぎた金額だった。
 なんて世間知らずなことだろうかと、慌てて断ろうとして立ち上がったわたしの目に映ったのは、あの子の手の中の、札束でぎちぎちになったマジックテープ止めのナイロンの安財布の姿だった。
 そこで初めてあの子と目が合った。
 とてもきれいな目だなと、そのとき、そう思った。

 今にして思えば、あの時あの子が背負っていたリュックサックには何かしらの凶器が入っていたのだろうし、あの子と出会った時間はどう考えてもせいぜい中学生ぐらいの普通の少年が出歩いているはずのものでもなかった。
 家に泊めることを決めたのはまともな判断ではなかっただろう。どう考えても。でもどうしようもなく、あの子には惹かれるところがあった。性的にという意味ではない。自分と同じ種類の人間にようやく巡り会えた、そんな直感があった。
 話がしたかった。生き辛くなかったか。何か他人に比べて自分はおかしいのではないかと思ったことはないか。これまでどうやって人生をやり過ごしてきたのか。君は何か、わたしの持っていない何かを持っているのではないか。それこそが君の美しさなのではないか、と尋ねたかった。そして聞いた。
 家までの道すがら、あの子は答えた。かつては生き辛かった。かつては自分はおかしいと思っていた。かつては人生をやり過ごしていた。だけど今ではそうではない。あなたに無くてぼくが持っているものといえば、多分リュックの中身がその正体だ。ああ、あと、自分が美しいとは思ったことは、一度もない。残念だけど。あの子はそう答えた。
 結局リュックの中身を見ることはなかった。だけどあの子のいた三日間は空虚でそれでいて満ち足りていた。空洞のような幸福がそこにはあった。
 わたしは毎晩あの子を抱きしめて眠った。あの子は特にそれに反応することはなかったけど、それで十分だった。

 夜中、あの子が部屋の隅に立って、一人で何かと話しているのを見かけたことがある。何もいないように見えたけど、確かにそこには何かがいたように感じた。
 あの子はそのとき、とても安らいだ様子に見えた。わたしはそれがうらやましかった。

 そして三日目の朝のこと、六枚切りの食パンを焼かずに食べながらあの子は、迷惑がかかるといけないから、そろそろ出ていく、と言った。
 そして、もうこれは要らないから、お姉さんに、と言って、札束の詰まった財布をテーブルの上に置いた。
 リュックを背負って立ち上がったあの子は、路地裏から出てきたときと同じように儚げだった。
 あの子は最後に、ありがとう、と言った。確かわたしはあの子に何か声を掛けて見送ったはずなのに、今となってはどうしても何を伝えたのかは思い出せない。ただ一人きりになったあと、玄関で割れた卵も無いのに一人しばらくしゃがんでいたことは、しっかりと覚えていた。
 そしてわたしはその日から一週間、仕事を休んだ。かかってきた電話は全部無視していた。画面を見る気にもなれなかった。

 そして今、アラームが鳴り止んでから十六時間後のこと。すっかり日は暮れて、みみずか何かがあたりで鳴いていた。あの子はあれからどうしているんだろう。その事だけをずっと考えていた。
 わたしはあの日以来こうして、毎晩同じ時間に、あの子とぶつかったあの道を歩いている。ご丁寧に卵をビニール袋に入れて。そして考えていた。あの子が最後に言ったことは、本当にありがとう、だけだっただろうか、と。
 その後に、またね、と続くのではないか、と。
 わたしは今、あの子の現れたあの路地裏の前に立って、そのずっと奥を眺めている。そして、いつかまたきっとあの子と出会うことになるのだろう、その日はそう遠くないことなのだろうと、わたしは考えていた。背負ったリュックサックのしっかりとした重みを、その身に感じながら。

 月はあの子の瞳のようにきれいだった。夜はわたしを包み込むように真っ暗だった。わたしは前に足を踏み出し、歩き始めた。リュックから取り出したハンマーの感触だけが、わたしを励ますようにリアルだった。

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