見出し画像

【短編】姉の話

 夜な夜な隣の姉の部屋から水音がする。天井からの水漏れでもないし飼っているあのジャンガリアンの給水器がおかしくなっているわけでもない。気になってしょうがない。うまく眠れない。壁を貫いて重く重く奇妙な変拍子で水音が繰り返されている。もう二週間あれを夜通し聞いて起きている。今日もまた眠れないまま早起きのカラスが森から騒ぎに出てくる時間がやってきた。布団に深く潜り考える。姉はぼくよりも早めに学校に出る。また部屋が空いたら、中の確認だけはしておこう。

 姉は一人っ子だった僕が十三歳のときに突然出来た血の繋がった姉で、二つ上だというのに僕よりも身長はずっと低く、一年半の付き合いになる。ぼくのクラスの女子の誰よりも背が低いぐらいだが、その分勝気で頭が回るらしく、一切の脈絡のなしに別に養子でも隠し子でもなんでもない正統な実子としてある日突然玄関の鍵を開けてわが神林家に登場しそれに驚く父に対しても母に対してもどう揃えたのかそれとも捏造したのか知らないがあらゆる証拠を用意しそれを鋭い身振り手振り弁舌そして長く美しい髪で演出しながら陳列することにより5分とかからずに神林家における自己の存在の正統性を言いくるめてしまっていた。とにかく根回しがうまいのだ。あととにかく舌が回るので口喧嘩で勝ったことはなかった。

「そういうことするんだ」

 ちょうどお腹が空いているときにカンに来ることを言われてカッとなり腕を掴んでしまったときには、いつもの口数とは別にそれだけ言われた。

 そのとき、何においてもぼくよりうわての姉は、瞳の使い方も当然うまいのだと知った。

「あたし涼子のときも無痛にすればよかった。あとで熱出ちゃったのよね。うんうん唸って」

 夕食中テレビの医療ドキュメンタリーを見ながら母がぼやく。それを聞いて、その節は大変お世話になりまして、と姉が深々とお辞儀した。味噌汁を飲んでいた父はむせてワカメを吹き出した。

「姉ちゃんの部屋って、なんか水があれしてない?」 

「あれ?」

 姉が聞き返す。 寝不足で回らない頭のまま、僕は煮浸しをつまんだ。

「なんか毎晩ピチャピチャ音がすんだよ寝れないんだよ。なんか見てもらったほうがよかない? 変だよあれ絶対さー」

「ええ別に普通だけどなあ。私すげえ寝れる。うおうわすごっおっほほほ」

 姉はテレビの中の妊婦が分けた命を引きずり出されるのを眺めていた。

「んわは。ねあれどう思う? すごくない?」

 姉は横目で僕をちらりと見た。ぼくは赤子というには赤黒いほどの小さな人間が画面の中で蠢くのを見つめていた。

 その口の奥からあの水音が聞こえた気がした。

 今日の夜部屋に来なよと誘われた。どうするか少し考えて行くことにした。それでわかるのが水音の正体にしても姉自身のなにかについてにしても、いずれにせよ眠れないうえで選ぶところはないのだ。

 今ぼくは、寝床で水音を聞きながら夜を待っていた。びたん、びたんと姉の部屋の床を打つ音が響いている。カラスは騒がない。まだ朝ではないからだ。彼らのたくさんの黒い瞳は窓の外からじっとぼくの部屋と姉の部屋を見つめていた。 彼らは産まれたての動物を狙うのだという。

 ぼくの部屋のドアが開いた。その向こうに開いていたのはテレビで見た赤子の口。歯の生えていない歯茎はいかにもやわらかそうで、ぼくは傷つけないよう、スリッパを脱ぎ、素足になって、中に入っていった。

 水の音が奥から聞こえてきていた。それを追ってぼくは這って奥に進んだ。

 水と赤子といえば、なにかの漫画でそれらしきものを読んだ覚えがある。水子だ。産まれなかった命だ。ぼくの姉はそれなのか? 果たして祈りを求めているのだろうか。

「あんたみたいに不出来な弟に祈られても」

 赤黒くほのかに光る肉の洞窟の中、後ろから首に絡みついた姉のすべらかな両腕に飛び上がった。

「りょ、涼子姉ちゃん」

「おおおやっと名前呼んだねえ! ちょっとれしいねーはははは」

 姉の髪が頬に触れる。

「だってそれあいつらがつけようとしてた名前だったんだろ」

「そうだよ涼太。あれかな見ちゃったのかなあ、手帳」

「うん。見た」

 姉の髪は長い。ぼくと同じくらい長くてキレイだ。髪はぼくの自慢だ。でも姉の肩は細く、ぼくのは今ではそうではなく、姉の顔は華恋だがぼくのはそこから離れて険しくなっていき、ぼくはそうして、どうあっても男になっていく。

「いつまでやんの?」

「満足してくれるまで」

「するわけある?」

「家を出るまで」

「出てどこにいくの?」

 そこでおれは振り返って姉ちゃんの瞳を見つめた。

「わかんない。でも姉ちゃんの墓探しに行くよ」

 涼子姉ちゃんは心底驚いたように眼を見開くと、大きく歯のない赤子の口で笑ってくれた。

「なんだよー!」

「なんだよって」

「いやなんだよーちゃんと大人少年してんゃん! なんか安心したわ。よかった。ほんとに。まじで。よかったわー」

 まあはるばる墓に来てもらってもあたし留守なわけだけど、と古い歌のようなことを言うのでおれもとうとうつられて笑ってしまった。茶化しているのでも恥ずかしがっているのでもないことはわかった。墓に行くなんて自分でもそんなこと口に出すまで思いつきもしなかった。あの姉ちゃんを驚かすことができたのもうれしかった。

 水音はずっと響いていた。でもそれは、赤子の口の中では不快でなかった。

 しばらく二人水音を聴いたあと、ありがとね、と姉ちゃんは呟いた。

 そして姉ちゃんとおれはそれぞれゆっくりと目を瞑った。鈍い水音の中で二人で眠った。

「おれ、今日から一週間学校休むから」

 朝食の場に四十五リットル半透明ゴミ袋いっぱいの髪の毛を携えてそう言ったおれを見て父と母は目を剥いた。

 姉はいつものキレイな歯並びで大笑いした。

「鏡見たのかよ!」

「見ながらでこれだよ。初めてやっだんだから」

 おれは妙なバランスで飛び跳ねている髪の毛をいじりながらむくれてみせた。毛が落ちておれのトーストに一本乗った。

「いや今日からってお前……」

「いいじゃーん青春でしょ青春。いいなーわたしもやろかなー。どう? いい?」

 コーヒーをテーブルに置こうとしたまま固まっている父に姉が茶化していった。みるみるうちに父も母も丸め込まれていく。頼りになる姉を尻目に、おれはボストンバッグとゴミ袋を抱えて外に出た。

 しばらく歩いたところで、後ろから涼子姉ちゃんのよろしくね、頑張ってねという掛け声が聞こえてた。振り向いて手を振る。行き先のアテはついている。なんとかなるだろう。

 ゴミ袋を捨てたあと、カーブミラーに映った自分の髪型を見て苦笑いした。まずは移動の前に美容院いやそれより床屋かな。そのほうが安い。使うあてもなく溜まっていったバイトの貯金とはいえ無限にあるわけではない。

 ああさっそくつまづいてしまった。予定変更だ計画修正だ。だかなんせしょうがない。これはおれにとって、とても初めてなことなのだ。

 墓に備えるのはなにかいいか、本人に聞くのはなしだろうなあと、よく晴れた空を見ながらおれはゆっくりと考えていた。本人のいない墓までは3日ほどの予定だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?