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【短編】V

 いつも聞こえてくるのは『あの彼女』についての噂とその振る舞いへの歓声。そしていつも見えるのは背中、遠い背中、そして長くきらめく、精巧にモデリングされた揺れる青い髪。自分とは何もかも違うのはわかっていたが、諦めるわけにはいかなかった。というかその考えすらなかった。その背を追うのは当然のことだった。

『あの彼女』、とだけ言えば誰のことを指しているのか当然誰にでもわかるようになったのはいつのことだったか、とにかくわたしがその場に立ったときには、既に彼女はそこにいた。君臨していた。絶対的な人気を誇っていた。いつから彼女が活動しているのか、どのような軌跡を辿って今その高さにあるのか、わたしの調べ上げた限りでは全容を掴むことはできなかったが、それでも彼女の輪郭を掴むことはできた。そのおぼろげな輪郭がわたしのロールモデルになり、周囲からもそのように認知された。自然、同じ道を歩む仲間もできた。

 ある人格に対する評価が、複数の人間で完全に一致するなどということは起こり得ないだろう。自らの一部分を演出して提供する“V”についてであればなおさらだ。わたしたちは彼女を追い、その背を狙う立場ではあったものの、彼女を追い求める巡礼者のようなものでもあった。みなそれぞれに彼女についての像を裡に抱えていて、それは坂を駆け上がる燃料でもあり、また逆に重荷でもあった。

 誰がいっただろうか? ある時「そんなの捨てたらいいのに」と誰かが誰かに言った。その子の言ったそれには、厳密には『あなたの抱えている彼女の像はわたしから見ればどう考えても間違っているんだからそれを捨ててスペースを開ければわたしのを分けてあげる』、といったニュアンスがあったように思うが、今となってはわからない。ともかくそのとき、重いものは他人を殴るのにはとてもよいのだということも誰かが思い出したのだった。

 こうしてわたしは少し外れた洞穴にひとり横たわっていた。あのグループで生き残ったのはわたしだけだろう。わたしの像が一番重かったし、硬かったし、なによりわたしにはしっかりと誰かを殴るための意志があった。慣れない動かし方をしたので腕は背中に回ったまま戻らず妙にセクシーなポーズで固定されているが、カメラ操作との組み合わせでそのうちなんとかなることだろうことはわかっていた。

「わたしが一番になるんだ! このわたしが!」

 はじめに殴りかかってきた子はそんなことを言っていた。けれどそれは本当のことだっただろうか? その子にとっての本当のことはそれだったのかもしれないが、わたしにとってはそうではないのではないかと、洞穴のローポリゴンの天井を眺めながら考えた。わたしにここまで登らせたのは一体なんだったか。わたしは静かな世界で考えていた。

 そこで違和感を覚えた。静かな世界? この世界は静かではない。そうであってはならないのだ。

『あの彼女』への歓声がやんでいてはおかしいのだ。

 洞窟の外に這い出る。山頂にあの美しい髪は舞っていなかった。どこにも彼女はいなかった。

 目眩を覚えた。折れたままの足を引きずっていつの間にか吹雪く雪山に変わり果てた道を彷徨い歩いた。しばらくして、雪に埋もれた人体を見つけた。それは彼女だった。山頂から転げ落ちてきたらしく、意識はなかったが、生きていてはいた。

 なにがあったかは聞かないことにした。わたしは彼女を担ぎあげた。美しく揺れる髪の中には、顔のない頭があった。

「どこに連れて行くの?」意識を取り戻した彼女は言った。 

「てっぺんまでですよ」わたしは言った。

 そこで彼女は恐慌を起こしたように暴れ始めた。叫び始めた。どうにか逃れようとし手足を振り回し始めた。青い髪がわたしの顔にかかる。それでもわたしの身体は重く、硬く、揺るぎなく、信念に支えられていた。何の問題もなかった。わたしはしっかりと歩き続けた。

 もうすぐ、そのときには、彼女は再び踊り始めるだろう。わたしはその礎となって彼女を支え続けるのだ。わたしはそのためにここまで登ってきたのだと、これこそが真に彼女のための行動なのだと、そのような深い確信に今襲われていた。

 初めて見た山頂の向こうには、無数の数のうめきうごめく顔と貌があった。山頂に立たせた彼女を仰向けに寝かせ、押さえつけ、そしてわたしの輪郭を一枚ずつ貼り付けていった。彼女の恐れはわたしで塗りつぶされていいった。これで彼女はまた動き続けられるだろう。これで彼女は補強されるだろう。これこそがそれなのだ。

 長い時間が過ぎた。世界は静かなまま、死んだままだった。

 そして彼女は、わたしなどまるでどこにもいないかのように立ち上がった。そしてまるで何事もなかったかのように、眼下の観衆を見据えてゆっくりと表情を作ると、再び青い髪とともに踊り始めた。唸り声のような歓声がまた轟き始めた。これでわたしはもうどこにもいなかった。

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